五月の東京は、眩しいくらいの陽射しに満ちていた。桜が散り、新緑が街を彩り始めたこの季節、街を歩く人々の表情にもどこか明るさが戻っていた。
 堀田愛奈は、オフィス街のカフェテラスに座り、アイスコーヒーを飲みながら、手帳に目を落としていた。
 一枚のメモ。その紙には、大手企業からのヘッドハンティングのオファーが記されていた。
 ──「より大きなフィールドで、リーダーとして活躍してほしい」
 担当者はそう言っていた。待遇は破格だった。キャリアアップには間違いなくなる。けれど、それは今いる会社を辞めること、そして、今築き上げた仲間たちや環境を手放すことを意味していた。
 迷わないわけがなかった。
 (このままここにいるのか。それとも、新しい世界に飛び込むのか)
 スマホを手に取り、ふと連絡先をスクロールした。
 ──加藤亮祐。
 彼に相談したいと思った。でも、すぐに指を止めた。
 (また、自分の進路を誰かに決めてもらうの?)
 自問する。彼なら、きっと応援してくれるだろう。どんな選択をしても、「大丈夫だよ」と背中を押してくれるに違いない。でも、それは依存ではないだろうか。
 心の奥で、もうひとりの自分が問いかける。
 (あなたは、どうしたいの?)
 その夜、ベッドに横たわりながら、何度も天井を見つめた。カーテン越しに差し込む街の灯りが、ぼんやりと部屋を照らしている。スマホの画面を何度も見つめ、結局、何も打たずに画面を伏せた。
 翌朝、愛奈は早く目が覚めた。朝焼けの光がカーテンの隙間から差し込み、まだ薄暗い部屋の中で、彼女は静かに支度を始めた。
 今日は、亮祐が一時帰国している日だった。仕事の都合でほんの数日だけ、日本に戻ると連絡があった。会う約束はしていなかったが、どうしても伝えたいことがあった。
 午前十時。待ち合わせたのは、思い出のカフェだった。初めて出会った、あのカフェ。
 ドアを開けた瞬間、懐かしいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。窓際の席に、彼はすでに座っていた。カジュアルなシャツにジャケットを羽織り、手にはカフェラテ。変わらない、けれど少し大人びた表情。
 「愛奈さん」
 呼ばれただけで、心がじんとした。久しぶりなのに、まるで昨日も会っていたかのような自然な空気がそこにあった。
 「お待たせ」
 「ううん、僕も今来たところ」
 ありきたりなやり取りが、たまらなく愛しかった。
 コーヒーを注文し、向かい合って座る。彼はすぐに気づいた。愛奈の表情が、普段と違うことに。
 「……何かあった?」
 ストレートな問いかけに、愛奈は小さく頷いた。そして、カバンからあのメモを取り出し、テーブルにそっと置いた。
 「……ヘッドハンティング、されたの」
 亮祐は驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔になった。
 「それで、どうするつもり?」
 「まだ……決めてない。行ったほうがいいのか、それとも、このままここで頑張ったほうがいいのか……わからない」
 正直に打ち明けた。迷っている自分を隠さなかった。
 亮祐は、少しだけ考えて、それからゆっくりと手を伸ばした。テーブルの上、愛奈の手にそっと触れた。
 「迷ったときは、俺の手を取っていいって、言ったよね」
 温かく、優しい声だった。
 愛奈は、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
 「……でも、あなたの夢を、邪魔したくない」
 「違う。愛奈さんが自分で決めることが、俺にとっていちばんの誇りだよ」
 彼は、きっぱりと言った。
 「もしこの話を断ったら、後悔する?」
 「……わからない。でも、もし一緒にいられるなら、後悔しないかもしれない」
 「なら、無理に答えを出さなくていい。ただ、ひとつだけ覚えていて」
 亮祐は、ぐっと愛奈の手を握りしめた。
 「俺は、どこにいても、何があっても、君の味方だよ」
 その言葉に、涙が溢れた。コーヒーカップが滲んで見えた。こんなにも強く、こんなにも優しく、誰かに支えられたのは初めてだった。



 愛奈は、テーブルの上で自分の手を包み込む亮祐の指先を、そっと見つめた。大きくて、温かくて、まるでどんな不安も受け止めてくれるような手だった。
 心の奥で、何かがほどけていく音がした。固く閉ざしていた扉が、ゆっくりと開いていく。
 「……怖かったんだ。自分で決めることが」
 小さな声で吐き出すと、亮祐はただ静かに頷いた。
 「怖いよな。でも、それでいいんだよ。怖いって思うのは、真剣に考えてる証拠だから」
 その優しい言葉に、胸が熱くなった。ふいに、カフェのスピーカーから流れてきた曲が耳に入る。柔らかなピアノの旋律。まるで、ふたりのために奏でられているかのようだった。
 「加藤さん」
 「うん?」
 「……私、行ってみたい」
 亮祐の目が少しだけ見開かれた。でもすぐに、嬉しそうに細められた。
 「そっか」
 「うん。怖いけど、挑戦してみたい。もっと自分にできることを増やしたいって思った。あなたが、背中を押してくれたから」
 「違うよ」
 彼は笑った。
 「君は、君自身の力でここまで来たんだ」
 その言葉に、また涙が滲んだ。でも今度は、流さなかった。流さずに、しっかりと胸に刻んだ。
 「ありがとう、加藤さん」
 「ううん。……愛奈さんの新しい世界、俺もすごく楽しみだよ」
 ふたりは、手を繋いだまま、しばらく無言で座っていた。外の通りを行き交う人々のざわめきも、カフェの店員が運ぶコーヒーの香りも、すべてが遠くなって、ただ互いの存在だけが確かだった。
 やがて、ふたりはカフェを出た。夕方の光が、ビルの隙間から差し込んでいる。長く伸びた影を踏みながら、ゆっくりと歩く。
 「……もしまた迷ったら、どうしたらいい?」
 ふと、愛奈が問いかけた。
 亮祐は少し考え、そして真剣な目で言った。
 「迷ったら、俺の手を取って」
 「……ずっと、空けておいてくれる?」
 「当たり前だろ」
 にやりと笑った顔が、どうしようもなく愛しかった。
 「でも、君が自分で決めた道なら、どんなときも全力で応援する。それが、俺にできる一番の支え方だと思ってる」
 その言葉に、胸が震えた。恋人だからとか、特別な関係だからとか、そんな枠に収まらない、もっと深いところで結ばれていると感じた。
 その夜、ふたりは別れ際、自然に手を繋ぎ直した。名残惜しさはあったけれど、もう寂しさに負けることはなかった。
 「またすぐ、会おうね」
 「うん。絶対に」
 改札前で、そっと手を離す。人混みに紛れていく亮祐の後ろ姿を見送りながら、愛奈は胸に手を当てた。
 (大丈夫。迷ったときは、この手を思い出せばいい)
 未来はまだ見えない。きっと、この先も迷うことはあるだろう。だけど、もう一人じゃない。そう思えた。
 帰り道、ふと空を見上げると、薄い月がビルの間から顔を出していた。まるで、そっと背中を押してくれているようだった。
 愛奈は、そっと微笑んだ。
 新しい未来へ。
 彼と、そして自分自身と、しっかり手を繋いで。
 【第十六章:迷ったときは、君の手を】(終)