九月、東京の空は夏の名残を引きずったまま、湿気と蒸し暑さを纏っていた。街路樹の葉がわずかに色づき始めるには、もう少しだけ時間が必要だった。
 堀田愛奈は、駅まで続くいつもの道を歩きながら、スマホを握りしめた。通知はなかった。わかっていた。時差を考えれば、今は向こうは夜中のはずだ。メールも、メッセージも、すぐに返ってくるわけではない。それでも、期待してしまう自分がいた。
 ──離れていても、心は繋がっている。
 あの日交わした約束を、何度も心の中で繰り返していた。
 亮祐がニューヨークへ旅立ってから、今日でちょうど一週間。空港で見送ったあの日、最後に交わしたキスの温もりは、まだ指先に、唇に、はっきりと残っている。
 けれど、それと同じくらい、寂しさも確かだった。
 オフィスに戻ってからの毎日は、思っていた以上に忙しかった。プロジェクトリーダーに任命され、新たなチームをまとめる役割を担うことになった。亮祐がいなくなった穴を、誰かが埋めなければならない。自分がやるしかないと、自然と思った。
 「堀田さん、お願いしたい案件があるんだけど」
 「すぐに対応します」
 自然とそんなふうに受け答えができるようになった。愛奈の中で、何かが確かに変わり始めていた。
 忙しさに追われるうちに、夜はあっという間に更けていく。帰宅して、簡単な食事を取り、シャワーを浴び、ベッドに倒れ込む。そのルーティンの中で、ふとスマホを手に取る。
 ──今日も、まだ。
 そんな日が続いた。
 それでも、愛奈は信じていた。亮祐が、遠く離れた場所で同じ空を見上げながら、きっと自分のことを思い出してくれていると。
 十月、秋の気配が街を包み始めた頃、ようやく一本のメールが届いた。
 『やっと少し落ち着きました。こっちは紅葉が始まってます。愛奈さんにも見せたいくらい、きれいな景色です。』
 その短い文章に、胸が熱くなった。添付されていた写真には、セントラルパークの並木道が映っていた。赤や黄色に色づいた木々の下を、人々がゆったりと歩いている。
 愛奈は、画面をそっと指で撫でた。
 「私も、行きたいな……」
 ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。それでも、心に小さな灯がともった気がした。
 仕事はますます忙しくなった。プロジェクトの進行管理、クライアント対応、チームメンバーのフォロー。プレッシャーに押しつぶされそうな日もあった。
 でも、負けたくなかった。
 (加藤さんが、信じてくれた私だから)
 そう思うだけで、踏ん張れた。
 十一月、街にはクリスマスイルミネーションの準備が始まり、気づけば冬の匂いが風に混じるようになっていた。
 ある夜、久しぶりに大学時代の親友・春薫と再会した。カフェのテーブルに向かい合い、カップから立ち上る湯気を見つめながら、春薫が言った。
 「……変わったね、愛奈。前より、ずっと強くなった」
 「……そうかな」
 「うん。でも、強がってるだけじゃないってわかる。ちゃんと、誰かを想ってる人の顔してる」
 その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。
 「春薫、私……」
 カップを両手で包み込みながら、ぽつりぽつりと話した。亮祐のこと。離れていること。それでも信じて待っていること。
 春薫は静かに聞いてくれた。そして最後に、こう言った。
 「愛奈、がんばってるね。でもね、たまにはちゃんと泣いてもいいんだよ」
 その言葉に、堪えていたものが崩れた。涙が、止まらなかった。
 泣きながら、愛奈は思った。
 離れても、忘れない。強くなった自分も、寂しい自分も、ぜんぶ引き受けて、生きていく。



 涙を拭ったあと、春薫と交わした言葉が胸に深く残った。
 「愛奈は、ちゃんと自分の力でここまで来たんだよ。遠くにいる誰かを想いながら、それでも毎日を前に進んでる。それって、すごいことだと思う」
 励ましでも慰めでもない、ただの真実。その言葉に支えられて、愛奈はまた顔を上げることができた。
 年末が近づくと、街はイルミネーションに彩られ、どこもかしこも光で満ちていた。会社帰り、駅前の広場に立ち寄ると、大きなクリスマスツリーが輝いていた。人混みの中で、カップルたちが肩を寄せ合い、笑い声を上げている。
 その光景を見ながら、愛奈はスマホを取り出し、思い切ってメッセージを送った。
 『メリークリスマス。そっちはどう?』
 数分後、返信が届いた。
 『メリークリスマス。君に会いたい。ずっと思ってる。』
 その短い言葉が、どれほど心を温めたか。冷たい冬の空気の中で、胸だけが熱を帯びていく。
 年が明け、冬が深まる頃、愛奈は昇進の打診を受けた。プロジェクトリーダーとしての手腕が認められ、正式にチームマネージャーへの昇格が決まったのだ。
 「……おめでとうございます!」
 チームメンバーが祝ってくれる中、愛奈は静かに微笑んだ。
 (亮祐さん、私、少しだけど、あなたに近づけたかな)
 ふたりの距離は、地理的には遠く離れている。けれど、心の距離は、確実に縮まっていた。そう信じたかった。
 二月のある夜、突然、亮祐からビデオ通話のリクエストが来た。慌てて受け取ると、そこには厚手のコートに身を包み、吐く息を白くして笑う彼の姿があった。
 「雪、降ってるんですよ。すごいでしょ」
 画面越しに見せてくれたニューヨークの街は、真っ白だった。雪に覆われた道路、煌めくイルミネーション、そして冷たさの中にも温もりを感じさせる街の灯り。
 「……きれい」
 「愛奈さんにも、見せたかった」
 照れたように笑う彼の顔に、思わず涙がこぼれそうになった。
 「私も、会いたいな」
 「もうすぐですよ。あと少しで……きっと」
 優しく、力強い声だった。
 三月。愛奈はついに大型プロジェクトの責任者に任命された。忙しさは過去最高だったが、それでも心は折れなかった。支えてくれるチーム、応援してくれる友人、そして、遠くから見守ってくれる彼の存在があったから。
 四月に入ると、街は桜で溢れた。新入社員たちが緊張した面持ちでオフィスビルを行き交う。愛奈も、かつてはあんなふうに右も左もわからないまま、必死に働いていた。今、その場所に立っている自分を、少しだけ誇りに思えた。
 春風が舞うある朝、ふいにスマホが震えた。
 ──亮祐さんからだ。
 震える手でメッセージを開くと、そこにはたった一言だけ、こう書かれていた。
 『今、隣にいてほしい。』
 その短い文章に、すべてが詰まっていた。寂しさも、愛しさも、ずっと溜め込んできた想いも。
 愛奈は、スマホを胸に抱きしめた。涙が溢れた。でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
 (私も、会いたい)
 強く、強く思った。
 離れても、心は決して離れなかった。空白の半年は、無駄じゃなかった。むしろ、ふたりの絆を深めるための、大切な時間だった。
 ──次に会うとき、私はもっと強く、もっと優しく、あなたの隣に立てるようになっていたい。
 その夜、愛奈はひとりベッドに横たわりながら、未来の自分を思い描いた。涙はもう、流さなかった。
 かわりに、そっと微笑んだ。
 【第十四章:空白の半年】(終)