八月初旬、空は眩しいほどの青を湛えていた。梅雨はすっかり過ぎ去り、アスファルトの上を波打つ熱気が夏の訪れを告げている。セミの鳴き声が頭上で響き、建物のガラスには白い雲が流れる様子が映っていた。
堀田愛奈は、社内の連絡掲示板に貼り出された一枚の文書を無意識に見つめていた。
──加藤亮祐、九月一日付で海外本社への出向が正式決定。
白い紙に黒く打たれた文字は、あまりにもあっけなく、簡潔だった。けれど、その一行が示す現実は、彼女の心を容赦なく締め付けた。
知っていた。わかっていた。けれど、こうして「正式に」目にすると、思っていたよりもずっと重い衝撃を受けた。
「……ついに、だね」
ふと隣に立った夏菜恵が、寂しそうに笑った。
「うん……」
それだけ言って、愛奈は目を伏せた。どんな顔をすればいいのか、どう言葉をつなげばいいのか、わからなかった。
亮祐は、まだ通常どおり出社していた。出向前の引き継ぎや、残務整理が山積みだったからだ。けれど、その姿を見るたびに、愛奈は胸の奥に小さな痛みを抱えていた。
(あと、何回、こうして同じ空間にいられるんだろう)
そう思うと、時間が無慈悲に過ぎていくのが怖かった。
週末、愛奈は思い切って亮祐を誘った。
「……もしよかったら、最後に一緒に出かけませんか?」
勇気を振り絞ったその言葉に、亮祐は一瞬目を見開き、それからふわりと笑った。
「もちろん。行きましょう。どこへでも」
その返事に、胸の奥がじんわりと温まった。やっぱりこの人が好きだ。何度でも、何度だって、そう思った。
行き先に選んだのは、郊外の小さな温泉街だった。日帰りでも行ける距離だけれど、あえて一泊を提案したのは、少しでも長く一緒にいたかったからだった。
出発の日、電車の中で並んで座ったふたりは、窓の外に流れる田園風景を眺めながら、ぽつぽつと言葉を交わした。大きな話題はなかった。ただ、互いの存在を静かに確認するように、目に映るものを共有し合った。
宿に着いたのは、午後三時過ぎ。木造の小さな旅館は、こじんまりとしていて、どこか懐かしい香りがした。通された部屋は二間続きの和室で、窓からは緑濃い山々が一望できた。
「……なんか、落ち着くね」
愛奈がそう言うと、亮祐も穏やかに笑った。
「うん。こういう場所、久しぶりです」
荷物を置き、ひと息ついた後、ふたりは浴衣に着替え、旅館の貸切風呂へ向かった。のれんを分けた先には、檜造りの大きな湯船があり、硫黄の香りがふわりと立ち込めていた。
露天風呂に身を沈めた愛奈は、澄んだ青空を仰いだ。
(こんなふうに、一緒にいられる時間が、あとどれくらいあるんだろう)
湯気の向こうで、亮祐も空を見上げていた。何を考えているのかはわからない。ただ、彼の隣にいるだけで、心が満たされていく気がした。
夕食は、地元の旬の食材を使った懐石料理だった。並べられた料理を前に、ふたりはまた笑い合った。美味しいね、とか、これ初めて食べるね、とか、何でもない会話を交わしながら。
けれど、心のどこかで、愛奈は焦っていた。
(言わなきゃ、伝えなきゃ)
でも、どうしても言葉にならなかった。「行かないで」とも、「寂しい」とも。「待ってる」とさえ、怖くて口にできなかった。
夜、部屋に戻ると、雨が降り始めていた。静かな雨音が、障子の向こうに広がる。ふたりは、布団を敷いた部屋で並んで座り、ぼんやりと雨の音を聞いていた。
「……いい音ですね」
「うん、落ち着く」
亮祐が、ふと愛奈の方を見た。
「……堀田さん」
「なに?」
「いてほしいな、って思ってます。今も、これからも」
その言葉は、決して大きな声ではなかった。けれど、胸の奥に、ずしりと響いた。
愛奈はそっと、彼の手を握った。震えていた。自分でも、こんなに心が揺れているとは思わなかった。
「私も……いてほしいって、思ってる。ずっと」
暗がりの中で、ふたりの手が重なる。熱を分け合うように、強く、優しく。
それだけで、十分だった。
言葉は足りなくても、想いは確かに、伝わっていた。
雨の音は夜が更けるごとに優しくなっていった。まるでふたりを包み込むように、しとしとと降り続ける。隣にいる亮祐の存在が、暗闇の中でもはっきりと感じられた。触れ合った手の温もりは、どんな言葉よりも真実味を帯びて心に沁みた。
「ねぇ、加藤さん」
「うん?」
「……約束してほしいの」
彼はゆっくりと顔を向けた。愛奈は恥ずかしさに震えながらも、真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「どんなに遠くにいても、どんなに忙しくても、私のこと……忘れないでいて」
一瞬、空気が震えたように感じた。亮祐は、目を細め、少しだけ顔を俯けた。そして、ふわりと、けれど確かな力で愛奈の手を握り直した。
「忘れるわけない。君は……僕の人生の中で、いちばん大切な人だから」
その言葉は、まるで魔法のように心の痛みを和らげた。寂しさは消えない。これから訪れる別れの時間も避けられない。けれど、こうして想いを確かめ合えたことで、未来に希望を持つことができた。
深夜、ふたりは並んで布団に横たわった。肩が触れるか触れないかの距離。静かな呼吸を感じながら、愛奈は目を閉じた。
(この時間を、絶対に忘れない)
遠く離れても、この温もりを思い出すだけで、きっと頑張れる。心に小さな誓いを立てながら、愛奈は静かに眠りに落ちた。
翌朝、雨はすっかり上がっていた。旅館の庭からは、雨上がりの草木の香りが漂ってくる。朝食を済ませ、チェックアウトを済ませたふたりは、最寄りの駅までの道をゆっくりと歩いた。
「……帰りたくないな」
愛奈がぽつりと呟くと、亮祐も苦笑した。
「僕もです。でも……また、必ず一緒に来ましょう」
「うん、約束」
小さなピンキー・プロミス。指先だけで交わした、子どものような約束。でもそれは、どんな契約書よりも強い絆だった。
駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってくるところだった。ふたりは並んで列に並び、何でもないふうを装いながら心の中では別れを惜しんでいた。
乗り込んだ電車の中でも、ぎゅうぎゅう詰めの人波に押されながら、愛奈は亮祐の袖口をそっとつまんだ。彼もそれに気づき、さりげなく手を重ねてくれた。
言葉はいらなかった。ただ、離れたくないという想いだけが、触れ合う指先に込められていた。
駅に着き、改札を抜けると、ついに本当の別れが訪れた。
「じゃあ……また、ね」
「また、すぐに」
互いに言葉を交わし、最後にそっと手を握り合った。その手を離すとき、愛奈の指先がわずかに震えた。亮祐もまた、ぎゅっと指を握り直し、名残惜しそうに離した。
改札の向こう側へと消えていく彼の背中を、愛奈はじっと見送った。
(離れても、絶対に、忘れない)
心に刻みつけるように、何度も何度もその言葉を繰り返した。
家に戻ると、テーブルの上に旅館でもらった小さな絵葉書が置かれていた。昨日、亮祐がこっそり荷物に忍ばせてくれていたものだ。
裏には、短いメッセージが添えられていた。
『君と見た景色、君と過ごした時間、全部宝物にする。離れても、ずっと。──亮祐』
読み終えた瞬間、涙が止まらなくなった。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
強く、温かい、愛の涙だった。
【第十三章:離れても、忘れない】(終)
堀田愛奈は、社内の連絡掲示板に貼り出された一枚の文書を無意識に見つめていた。
──加藤亮祐、九月一日付で海外本社への出向が正式決定。
白い紙に黒く打たれた文字は、あまりにもあっけなく、簡潔だった。けれど、その一行が示す現実は、彼女の心を容赦なく締め付けた。
知っていた。わかっていた。けれど、こうして「正式に」目にすると、思っていたよりもずっと重い衝撃を受けた。
「……ついに、だね」
ふと隣に立った夏菜恵が、寂しそうに笑った。
「うん……」
それだけ言って、愛奈は目を伏せた。どんな顔をすればいいのか、どう言葉をつなげばいいのか、わからなかった。
亮祐は、まだ通常どおり出社していた。出向前の引き継ぎや、残務整理が山積みだったからだ。けれど、その姿を見るたびに、愛奈は胸の奥に小さな痛みを抱えていた。
(あと、何回、こうして同じ空間にいられるんだろう)
そう思うと、時間が無慈悲に過ぎていくのが怖かった。
週末、愛奈は思い切って亮祐を誘った。
「……もしよかったら、最後に一緒に出かけませんか?」
勇気を振り絞ったその言葉に、亮祐は一瞬目を見開き、それからふわりと笑った。
「もちろん。行きましょう。どこへでも」
その返事に、胸の奥がじんわりと温まった。やっぱりこの人が好きだ。何度でも、何度だって、そう思った。
行き先に選んだのは、郊外の小さな温泉街だった。日帰りでも行ける距離だけれど、あえて一泊を提案したのは、少しでも長く一緒にいたかったからだった。
出発の日、電車の中で並んで座ったふたりは、窓の外に流れる田園風景を眺めながら、ぽつぽつと言葉を交わした。大きな話題はなかった。ただ、互いの存在を静かに確認するように、目に映るものを共有し合った。
宿に着いたのは、午後三時過ぎ。木造の小さな旅館は、こじんまりとしていて、どこか懐かしい香りがした。通された部屋は二間続きの和室で、窓からは緑濃い山々が一望できた。
「……なんか、落ち着くね」
愛奈がそう言うと、亮祐も穏やかに笑った。
「うん。こういう場所、久しぶりです」
荷物を置き、ひと息ついた後、ふたりは浴衣に着替え、旅館の貸切風呂へ向かった。のれんを分けた先には、檜造りの大きな湯船があり、硫黄の香りがふわりと立ち込めていた。
露天風呂に身を沈めた愛奈は、澄んだ青空を仰いだ。
(こんなふうに、一緒にいられる時間が、あとどれくらいあるんだろう)
湯気の向こうで、亮祐も空を見上げていた。何を考えているのかはわからない。ただ、彼の隣にいるだけで、心が満たされていく気がした。
夕食は、地元の旬の食材を使った懐石料理だった。並べられた料理を前に、ふたりはまた笑い合った。美味しいね、とか、これ初めて食べるね、とか、何でもない会話を交わしながら。
けれど、心のどこかで、愛奈は焦っていた。
(言わなきゃ、伝えなきゃ)
でも、どうしても言葉にならなかった。「行かないで」とも、「寂しい」とも。「待ってる」とさえ、怖くて口にできなかった。
夜、部屋に戻ると、雨が降り始めていた。静かな雨音が、障子の向こうに広がる。ふたりは、布団を敷いた部屋で並んで座り、ぼんやりと雨の音を聞いていた。
「……いい音ですね」
「うん、落ち着く」
亮祐が、ふと愛奈の方を見た。
「……堀田さん」
「なに?」
「いてほしいな、って思ってます。今も、これからも」
その言葉は、決して大きな声ではなかった。けれど、胸の奥に、ずしりと響いた。
愛奈はそっと、彼の手を握った。震えていた。自分でも、こんなに心が揺れているとは思わなかった。
「私も……いてほしいって、思ってる。ずっと」
暗がりの中で、ふたりの手が重なる。熱を分け合うように、強く、優しく。
それだけで、十分だった。
言葉は足りなくても、想いは確かに、伝わっていた。
雨の音は夜が更けるごとに優しくなっていった。まるでふたりを包み込むように、しとしとと降り続ける。隣にいる亮祐の存在が、暗闇の中でもはっきりと感じられた。触れ合った手の温もりは、どんな言葉よりも真実味を帯びて心に沁みた。
「ねぇ、加藤さん」
「うん?」
「……約束してほしいの」
彼はゆっくりと顔を向けた。愛奈は恥ずかしさに震えながらも、真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「どんなに遠くにいても、どんなに忙しくても、私のこと……忘れないでいて」
一瞬、空気が震えたように感じた。亮祐は、目を細め、少しだけ顔を俯けた。そして、ふわりと、けれど確かな力で愛奈の手を握り直した。
「忘れるわけない。君は……僕の人生の中で、いちばん大切な人だから」
その言葉は、まるで魔法のように心の痛みを和らげた。寂しさは消えない。これから訪れる別れの時間も避けられない。けれど、こうして想いを確かめ合えたことで、未来に希望を持つことができた。
深夜、ふたりは並んで布団に横たわった。肩が触れるか触れないかの距離。静かな呼吸を感じながら、愛奈は目を閉じた。
(この時間を、絶対に忘れない)
遠く離れても、この温もりを思い出すだけで、きっと頑張れる。心に小さな誓いを立てながら、愛奈は静かに眠りに落ちた。
翌朝、雨はすっかり上がっていた。旅館の庭からは、雨上がりの草木の香りが漂ってくる。朝食を済ませ、チェックアウトを済ませたふたりは、最寄りの駅までの道をゆっくりと歩いた。
「……帰りたくないな」
愛奈がぽつりと呟くと、亮祐も苦笑した。
「僕もです。でも……また、必ず一緒に来ましょう」
「うん、約束」
小さなピンキー・プロミス。指先だけで交わした、子どものような約束。でもそれは、どんな契約書よりも強い絆だった。
駅に着くと、ちょうど電車がホームに入ってくるところだった。ふたりは並んで列に並び、何でもないふうを装いながら心の中では別れを惜しんでいた。
乗り込んだ電車の中でも、ぎゅうぎゅう詰めの人波に押されながら、愛奈は亮祐の袖口をそっとつまんだ。彼もそれに気づき、さりげなく手を重ねてくれた。
言葉はいらなかった。ただ、離れたくないという想いだけが、触れ合う指先に込められていた。
駅に着き、改札を抜けると、ついに本当の別れが訪れた。
「じゃあ……また、ね」
「また、すぐに」
互いに言葉を交わし、最後にそっと手を握り合った。その手を離すとき、愛奈の指先がわずかに震えた。亮祐もまた、ぎゅっと指を握り直し、名残惜しそうに離した。
改札の向こう側へと消えていく彼の背中を、愛奈はじっと見送った。
(離れても、絶対に、忘れない)
心に刻みつけるように、何度も何度もその言葉を繰り返した。
家に戻ると、テーブルの上に旅館でもらった小さな絵葉書が置かれていた。昨日、亮祐がこっそり荷物に忍ばせてくれていたものだ。
裏には、短いメッセージが添えられていた。
『君と見た景色、君と過ごした時間、全部宝物にする。離れても、ずっと。──亮祐』
読み終えた瞬間、涙が止まらなくなった。
でもそれは、悲しみの涙ではなかった。
強く、温かい、愛の涙だった。
【第十三章:離れても、忘れない】(終)



