七月に入ったばかりのある土曜日。東京の街は、真夏を目前に控えた湿度と熱気に包まれていた。蝉の声がまだ聞こえないのは、きっと季節がその足音をまだためらっているからだろう。そんな少しだけ気怠い空気の中、堀田愛奈は、駅ビルの待ち合わせ場所に立っていた。
 今日は、リベンジの初デート。あの日、中途半端に終わってしまった“告白のような夜”の続きを、ようやく取り戻すための日だった。
 朝から何度も天気予報をチェックして、念のために日傘と折りたたみ傘の両方をバッグに忍ばせた。選んだ服は、涼しげなブルーグレーのワンピース。シンプルだけど、動くたびにふわりと揺れる裾が、夏らしさを演出してくれる。
 スマホの時計をちらりと見ると、待ち合わせの時間まであと三分。人波の中から彼の姿を探すと、少しだけ離れた場所に、見慣れたシルエットを見つけた。
 亮祐は、ネイビーのカジュアルジャケットに白のシャツ、ベージュのチノパンというラフな格好だった。オフィスで見るスーツ姿とは違って、どこか親しみやすく、それでいてやっぱり少し背筋が伸びるような、そんな大人の雰囲気をまとっていた。
 彼もすぐにこちらに気づき、微笑んで駆け寄ってくる。その一歩一歩が、まるで空気を優しく押し分けるように自然で、愛奈は胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
 「……待たせました?」
 「ううん、私も今来たところ」
 ありきたりな会話だったけれど、それでも嬉しかった。亮祐は少し照れたように頭をかき、手に持っていた小さな紙袋を差し出してきた。
 「これ……ちょっとしたお詫び」
 「え?」
 受け取った袋の中には、涼しげなデザインのハンカチが入っていた。淡い水色に、繊細なレースの縁取りがされている。
 「先週、途中で帰ることになっちゃったから。……せめてもの、埋め合わせ」
 「……ありがとう。すごく、うれしい」
 胸がいっぱいになった。こんなにさりげない優しさをくれる人だから、好きになったんだと思った。
 そのままふたりは並んで歩き出した。行き先は、愛奈が前から行きたいと言っていた水族館。都市型の大型ビルの中にあるそこは、ちょっとした非日常を味わえる場所だった。
 エスカレーターを上がり、館内に入ると、冷房の効いた空気と、水槽越しの青い光に包まれた。現実世界の喧騒が、ふわりと遠ざかる。
 最初に出迎えてくれたのは、天井まで届く巨大なアクアリウム。色とりどりの魚たちが、光の中を自由に泳ぎ回っていた。
 「わあ……」
 思わず声が漏れる。愛奈は顔を上げ、目を輝かせた。その横顔を見た亮祐は、ふっと微笑み、カメラを取り出してシャッターを切った。
 「えっ、今撮ったの?」
 「うん。……きれいだったから」
 その言葉に、頬が熱くなる。きっと、魚のことを言っているんだと思いながらも、どこか、ほんの少しだけ、違う意味が込められている気がしてならなかった。
 館内を歩きながら、ふたりは小さなクラゲの水槽をのぞいたり、ペンギンの泳ぐ様子に歓声を上げたり、何でもないことで笑い合った。
 愛奈は、こんな風に自然に笑える自分に驚いていた。仕事でもない、義務でもない、ただ好きな人と一緒にいるだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。
 けれど、イルカショーが始まる頃になると、ふたりの間に微妙な空気が流れ始めた。
 ショーが始まる直前、ふとしたきっかけで、亮祐が過去の恋人の話を口にしたのだ。
 「……向こうでは、彼女がいろいろ支えてくれてたから、乗り越えられたんだと思います」
 何気ない会話の流れだった。けれど、愛奈の胸には小さな棘のようにその言葉が刺さった。
 (支えてくれてた彼女……)
 自分は、そんな存在になれるのだろうか。まだ何も始まっていないのに、不安だけが一歩先を歩いていく。
 「……私には、支えるほどの力、あるのかな」
 つい、小さな声で呟いてしまった。亮祐は気づかなかったのか、聞こえなかったふりをしたのか、ただ静かにショーの始まりを見つめていた。
 イルカたちが空高くジャンプし、しぶきをあげる。その歓声の中にまぎれて、ふたりの間に生まれた小さな沈黙が、深く静かに降り積もっていった。



 ショーが終わった後、ふたりは自然と足を止め、静かな通路を歩いた。人混みを避けるように、少しだけ距離を取りながら。ふと隣を見上げると、天井に取り付けられた小さな水槽から、光に照らされたクラゲたちがゆらゆらと漂っているのが見えた。まるで、自分たちの心の中に生まれた微妙な違和感を映し出しているかのようだった。
 亮祐は、何か言いたげに口を開きかけて、そして閉じた。その様子に、愛奈も言葉を飲み込んだ。互いに触れたくない、けれど無視もできない感情の端を、そっと指先でなぞるような時間が続いた。
 出口へ向かうエスカレーターの前で、亮祐がふいに足を止めた。
 「……今日、楽しかった?」
 その問いかけは、単なる社交辞令ではなかった。彼自身が、確かめたかったのだろう。今日一日を、一緒に過ごした意味を。
 愛奈は一瞬だけ迷ったが、すぐに微笑んで答えた。
 「うん、すごく。……ありがとう」
 それは嘘ではなかった。本当に、楽しかった。けれど、その楽しさの中に、小さな寂しさが紛れ込んでいたのも事実だった。
 エスカレーターに並んで立つと、ふたりの肩がほんの少しだけ触れた。触れて、離れて、またそっと重なる。その繰り返しが、今の自分たちの関係そのもののようだった。
 ビルを出ると、外はすっかり夜になっていた。ビル群の間を縫うようにして風が吹き抜け、愛奈の髪を優しく揺らした。夜空には雲が流れ、星はほとんど見えなかったが、街の灯りがそれを補うかのように瞬いていた。
 「……このあと、どうします?」
 亮祐が尋ねた声は、どこかためらいを含んでいた。
 愛奈は、少しだけ考えた。それから、小さく首を振った。
 「今日は、ここで帰ろうかな」
 「……そう、ですね」
 亮祐もまた、少し寂しそうに笑った。
 駅までの道を歩きながら、ふたりはまた静かに並んだ。ときおりすれ違う人たちの声や笑い声が、夜の空気に溶けていく。その中で、ふたりだけが静かに、確かに、お互いの存在を感じながら歩いていた。
 改札前に着くと、ふたりは自然と立ち止まった。駅の構内には、電車の到着を知らせるアナウンスが流れていた。
 「今日は、ありがとう」
 「こちらこそ。……また、行きましょう」
 「うん。……また、ね」
 その言葉を交わしたあと、ふたりは小さく会釈して別れた。
 愛奈は改札を抜け、振り返らずに階段を下りた。胸の奥に、どうしようもない寂しさが広がっていく。けれど、それは悲しいものではなかった。むしろ、ふたりがこれからもっと深く繋がっていくために必要な通過点のように思えた。
 電車の中、窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、愛奈はそっとつぶやいた。
 「……次は、ちゃんと、伝えたいな」
 好きだという気持ちも、支えたいという想いも、全部。中途半端なままじゃなく、きちんと。
 家に帰り着くと、スマホが震えた。亮祐からのメッセージだった。
 『今日はありがとう。次は、もっとちゃんとしたデートにしようね。約束。』
 その言葉に、胸がぎゅっとなった。嬉しくて、泣きたくなるほど。
 愛奈は震える指で返信を打った。
 『私も、また行きたいです。今度は、もっと笑顔で。』
 送信ボタンを押したあと、しばらくスマホを胸に抱きしめた。
 外では、ふいに小さな雨が降り始めた。ぽつぽつと窓を叩く音が、夜の静寂に優しく溶けていく。
 でも、心の中には、確かな灯りがともっていた。
 たとえ今日が、完璧なハッピーエンドじゃなくても。ふたりの物語は、まだまだこれから続いていく。きっと、もっと深く、もっと温かく。
 【第十二章:ハッピーエンドじゃない初デート】(終)