海外異動の辞令が正式決定する直前、ふたりの間に流れていた時間は、どこか不思議な静けさを持っていた。互いの想いを交わし、未来に向かって歩み始めると決めたはずなのに、まだその背中には、いくつもの感情の影が揺れていた。
六月末。湿度を帯びた東京の空は、梅雨特有の重苦しさを纏っている。灰色の雲が空一面に広がり、街を歩く人々もどこか急ぎ足で、傘を差す手元にも焦りが滲んでいた。だがその日は、奇跡のように雨が降らなかった。まるで何かがこれから起こることを見計らったように、空は曖昧なまま濡らすことをやめていた。
堀田愛奈は、社内での午後の定例会議を終えて、ひと息つこうと空いた会議室の窓際に立っていた。会議の内容が頭に残っているわけではなかった。思い返していたのは、亮祐が昨日ふいに告げた一言だった。
「今度、飯行きませんか。ちゃんとしたやつ」
その言い方は、まるで“告白の予告”のように聞こえた。今までどんなに親しく話していても、どんなに仕事帰りに一緒にカフェへ寄ったとしても、“飯行きませんか。ちゃんとしたやつ”なんて、言われたことはなかった。目線を合わせて、それも、少しだけ息を詰めるような表情で。
──ちゃんとしたやつ。
その言葉が、愛奈の胸の中で何度も再生されていた。
「仕事帰りに軽く」ではなく、「お礼を兼ねて」でもなく、「ちょっと相談があって」でもない。そのどれとも違う響きが、心に残って離れなかった。
約束の日は金曜日。今日は木曜。明日、その日が来る。
だけど、浮かれてばかりいられるような状況ではなかった。出向話は保留になったものの、「代替案」として新たなプロジェクトの国内チームリーダー候補に亮祐の名が上がっているという噂もあった。つまり、またすぐに彼が違う場所に行ってしまう可能性があるということ。彼の人生が大きく動くとき、自分の立ち位置は、果たして変わらず隣にいられる場所なのだろうか──そんな不安が心を掠めていた。
その夜、愛奈はクローゼットの前で長い時間を過ごした。食事の予定なんて、仕事帰りにすぐ行けるように適当なワンピースでもいいのかもしれない。だけど、「ちゃんとしたやつ」には、「ちゃんとした自分」で応えたかった。
選んだのは、淡いクリームベージュのシフォンワンピース。袖口がふわりと揺れ、ウエストにかけてのシルエットがやさしく身体を包む。決して派手ではないけれど、光の下ではほんの少しだけ艶やかに見える素材だった。
「……大丈夫、大丈夫、変に思われたりしない」
そう言い聞かせながらも、やっぱり何度も鏡の前で角度を変え、髪を束ね直し、口紅の色を塗っては拭いてを繰り返した。
迎えた金曜日。午前中の仕事は、ほとんど上の空だった。それでも表面上は平静を装い、いつものように振る舞った。昼休みにも誰にも気づかれないように、さりげなくネイルの剥げをチェックし、バッグの中にハンドクリームを忍ばせた。
夕方。終業のチャイムが鳴る直前に、亮祐からチャットが届いた。
『待ち合わせは駅の南口、19時に。少しだけ、雰囲気のいい場所を予約してます』
「雰囲気のいい場所」──その言葉が、さらに愛奈の心をくすぐった。どうしよう、やっぱり緊張する。でも、逃げたくない。これは、ちゃんと向き合う時間なんだ。
18時45分。駅の南口。少しだけ背伸びしたワンピースに身を包んで待つ愛奈の元へ、数分後に亮祐が現れた。紺のジャケットにライトグレーのシャツ。いつものオフィススタイルとは違って、どこか柔らかい印象を与えてくれる。彼の目が、ふいに愛奈を見て、ほんの一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
「……すごく、きれいです」
その一言に、心臓が音を立てた。言葉が上手く返せず、照れ隠しのように微笑んで、頷いた。
連れて行かれたのは、駅から少し歩いた場所にある小さなビストロ。予約席は窓際で、照明も控えめ。キャンドルの火がテーブルをほんのり照らしていた。メニューには、知らない名前の前菜や、ワインのリストが並び、少しだけ背筋が伸びる。
「緊張してます?」
「……してます」
「僕もです。こういうの、慣れてないんで」
互いに笑って、少しだけ緊張が解けた。運ばれてきた前菜にフォークを伸ばしながら、仕事の話、最近読んだ本の話、そして、互いの好きな映画の話へと会話が自然と流れていった。
笑い合う瞬間がいくつもあって、それでも時折、言葉が途切れたときにだけ、妙な沈黙がふたりを包んだ。
──このままじゃ、何も言えずに終わっちゃう。
そう思った矢先、ふと彼が何かを言いかけたとき、彼のスマホが振動した。画面を見た彼の表情が、一瞬で変わった。
「……ごめんなさい。ちょっと、会社から」
その言葉に、愛奈はすべてを察した。
「ごめん、どうしても外せない会議が入ったらしくて……」
亮祐は申し訳なさそうに顔をしかめ、スマホを持つ手を小さく震わせていた。その表情だけで、どれだけこの夜を大切に思ってくれていたかが伝わってきた。愛奈はその痛みに胸を締めつけられながらも、無理に笑った。
「ううん、大丈夫。仕事なんだもん、仕方ないよ」
「でも……せっかくの夜だったのに……」
「せっかくの夜、だったんだね」
つい、そう繰り返してしまった。言葉に出して初めて、ふたりが同じ気持ちでこの時間を待ちわびていたことが、より鮮明になった気がした。
亮祐は悔しそうに唇を噛み、立ち上がった。財布を取り出し、支払いを済ませると、慌てて席に戻ってきた。
「今度、必ず。今日の埋め合わせ、ちゃんとするから」
「うん、楽しみにしてる」
愛奈も立ち上がり、ふたりで店を後にした。外に出ると、湿った夜風が頬を撫でた。ビルの隙間から見える空には、にじんだ星がぽつりぽつりと浮かんでいた。
駅までの道、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。でもその沈黙は、どこか心地よく、そして寂しかった。腕が触れそうで触れない距離。言いたいことはたくさんあったのに、どれも胸の中で言葉にならずにくすぶっていた。
駅の改札前に着くと、亮祐がふと立ち止まった。
「……また、必ず、誘います」
「うん、待ってる」
それだけを交わして、改札をくぐった。振り返れば、まだ彼はその場に立ち尽くしていた。まるで、もう一度何かを伝えようとするかのように。
電車に乗り込み、揺れる車内で立ったまま、愛奈はスマホを取り出した。何か、言葉を送りたかった。けれど、どんな言葉も軽くなってしまいそうで、結局メッセージは打たずに画面を閉じた。
最寄り駅に着き、改札を抜けたとき、不意に通知音が鳴った。
『今日の君、すごくきれいだった。ちゃんと伝えたかったのに、できなかった。今度は、必ず伝える。──亮祐』
読み返すうちに、涙が滲んだ。駅のベンチに座り込み、夜の空気に紛れて、小さな声で呟いた。
「……私も、ちゃんと伝えたいよ」
その夜、ベッドに入っても眠れなかった。心がまだ、どこか彼の隣にいるような感覚が残っていた。夢と現実の狭間で、ふたりの間に浮かんでいる小さな約束だけが、確かに未来へと続く光のように思えた。
翌日、愛奈は朝のカフェでコーヒーを飲みながら、手帳を開いた。予定を書き込むスペースの隅に、ふとペンを走らせる。
『次、会えたら──私からも、ちゃんと気持ちを伝える』
その文字は、小さく、けれど揺るぎない決意だった。
ふたりの恋は、まだはじまったばかり。きっと、すれ違うことも、傷つくこともあるだろう。それでも、手を伸ばして、また繋ぎ直せばいい。そう信じられるだけの絆が、確かに育っていた。
だから──今度こそ、ちゃんと。
心からの「好き」を、まっすぐに届けよう。
それが、今日の小さな誓いだった。
【第十一章:告白のような口実】(終)
六月末。湿度を帯びた東京の空は、梅雨特有の重苦しさを纏っている。灰色の雲が空一面に広がり、街を歩く人々もどこか急ぎ足で、傘を差す手元にも焦りが滲んでいた。だがその日は、奇跡のように雨が降らなかった。まるで何かがこれから起こることを見計らったように、空は曖昧なまま濡らすことをやめていた。
堀田愛奈は、社内での午後の定例会議を終えて、ひと息つこうと空いた会議室の窓際に立っていた。会議の内容が頭に残っているわけではなかった。思い返していたのは、亮祐が昨日ふいに告げた一言だった。
「今度、飯行きませんか。ちゃんとしたやつ」
その言い方は、まるで“告白の予告”のように聞こえた。今までどんなに親しく話していても、どんなに仕事帰りに一緒にカフェへ寄ったとしても、“飯行きませんか。ちゃんとしたやつ”なんて、言われたことはなかった。目線を合わせて、それも、少しだけ息を詰めるような表情で。
──ちゃんとしたやつ。
その言葉が、愛奈の胸の中で何度も再生されていた。
「仕事帰りに軽く」ではなく、「お礼を兼ねて」でもなく、「ちょっと相談があって」でもない。そのどれとも違う響きが、心に残って離れなかった。
約束の日は金曜日。今日は木曜。明日、その日が来る。
だけど、浮かれてばかりいられるような状況ではなかった。出向話は保留になったものの、「代替案」として新たなプロジェクトの国内チームリーダー候補に亮祐の名が上がっているという噂もあった。つまり、またすぐに彼が違う場所に行ってしまう可能性があるということ。彼の人生が大きく動くとき、自分の立ち位置は、果たして変わらず隣にいられる場所なのだろうか──そんな不安が心を掠めていた。
その夜、愛奈はクローゼットの前で長い時間を過ごした。食事の予定なんて、仕事帰りにすぐ行けるように適当なワンピースでもいいのかもしれない。だけど、「ちゃんとしたやつ」には、「ちゃんとした自分」で応えたかった。
選んだのは、淡いクリームベージュのシフォンワンピース。袖口がふわりと揺れ、ウエストにかけてのシルエットがやさしく身体を包む。決して派手ではないけれど、光の下ではほんの少しだけ艶やかに見える素材だった。
「……大丈夫、大丈夫、変に思われたりしない」
そう言い聞かせながらも、やっぱり何度も鏡の前で角度を変え、髪を束ね直し、口紅の色を塗っては拭いてを繰り返した。
迎えた金曜日。午前中の仕事は、ほとんど上の空だった。それでも表面上は平静を装い、いつものように振る舞った。昼休みにも誰にも気づかれないように、さりげなくネイルの剥げをチェックし、バッグの中にハンドクリームを忍ばせた。
夕方。終業のチャイムが鳴る直前に、亮祐からチャットが届いた。
『待ち合わせは駅の南口、19時に。少しだけ、雰囲気のいい場所を予約してます』
「雰囲気のいい場所」──その言葉が、さらに愛奈の心をくすぐった。どうしよう、やっぱり緊張する。でも、逃げたくない。これは、ちゃんと向き合う時間なんだ。
18時45分。駅の南口。少しだけ背伸びしたワンピースに身を包んで待つ愛奈の元へ、数分後に亮祐が現れた。紺のジャケットにライトグレーのシャツ。いつものオフィススタイルとは違って、どこか柔らかい印象を与えてくれる。彼の目が、ふいに愛奈を見て、ほんの一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
「……すごく、きれいです」
その一言に、心臓が音を立てた。言葉が上手く返せず、照れ隠しのように微笑んで、頷いた。
連れて行かれたのは、駅から少し歩いた場所にある小さなビストロ。予約席は窓際で、照明も控えめ。キャンドルの火がテーブルをほんのり照らしていた。メニューには、知らない名前の前菜や、ワインのリストが並び、少しだけ背筋が伸びる。
「緊張してます?」
「……してます」
「僕もです。こういうの、慣れてないんで」
互いに笑って、少しだけ緊張が解けた。運ばれてきた前菜にフォークを伸ばしながら、仕事の話、最近読んだ本の話、そして、互いの好きな映画の話へと会話が自然と流れていった。
笑い合う瞬間がいくつもあって、それでも時折、言葉が途切れたときにだけ、妙な沈黙がふたりを包んだ。
──このままじゃ、何も言えずに終わっちゃう。
そう思った矢先、ふと彼が何かを言いかけたとき、彼のスマホが振動した。画面を見た彼の表情が、一瞬で変わった。
「……ごめんなさい。ちょっと、会社から」
その言葉に、愛奈はすべてを察した。
「ごめん、どうしても外せない会議が入ったらしくて……」
亮祐は申し訳なさそうに顔をしかめ、スマホを持つ手を小さく震わせていた。その表情だけで、どれだけこの夜を大切に思ってくれていたかが伝わってきた。愛奈はその痛みに胸を締めつけられながらも、無理に笑った。
「ううん、大丈夫。仕事なんだもん、仕方ないよ」
「でも……せっかくの夜だったのに……」
「せっかくの夜、だったんだね」
つい、そう繰り返してしまった。言葉に出して初めて、ふたりが同じ気持ちでこの時間を待ちわびていたことが、より鮮明になった気がした。
亮祐は悔しそうに唇を噛み、立ち上がった。財布を取り出し、支払いを済ませると、慌てて席に戻ってきた。
「今度、必ず。今日の埋め合わせ、ちゃんとするから」
「うん、楽しみにしてる」
愛奈も立ち上がり、ふたりで店を後にした。外に出ると、湿った夜風が頬を撫でた。ビルの隙間から見える空には、にじんだ星がぽつりぽつりと浮かんでいた。
駅までの道、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。でもその沈黙は、どこか心地よく、そして寂しかった。腕が触れそうで触れない距離。言いたいことはたくさんあったのに、どれも胸の中で言葉にならずにくすぶっていた。
駅の改札前に着くと、亮祐がふと立ち止まった。
「……また、必ず、誘います」
「うん、待ってる」
それだけを交わして、改札をくぐった。振り返れば、まだ彼はその場に立ち尽くしていた。まるで、もう一度何かを伝えようとするかのように。
電車に乗り込み、揺れる車内で立ったまま、愛奈はスマホを取り出した。何か、言葉を送りたかった。けれど、どんな言葉も軽くなってしまいそうで、結局メッセージは打たずに画面を閉じた。
最寄り駅に着き、改札を抜けたとき、不意に通知音が鳴った。
『今日の君、すごくきれいだった。ちゃんと伝えたかったのに、できなかった。今度は、必ず伝える。──亮祐』
読み返すうちに、涙が滲んだ。駅のベンチに座り込み、夜の空気に紛れて、小さな声で呟いた。
「……私も、ちゃんと伝えたいよ」
その夜、ベッドに入っても眠れなかった。心がまだ、どこか彼の隣にいるような感覚が残っていた。夢と現実の狭間で、ふたりの間に浮かんでいる小さな約束だけが、確かに未来へと続く光のように思えた。
翌日、愛奈は朝のカフェでコーヒーを飲みながら、手帳を開いた。予定を書き込むスペースの隅に、ふとペンを走らせる。
『次、会えたら──私からも、ちゃんと気持ちを伝える』
その文字は、小さく、けれど揺るぎない決意だった。
ふたりの恋は、まだはじまったばかり。きっと、すれ違うことも、傷つくこともあるだろう。それでも、手を伸ばして、また繋ぎ直せばいい。そう信じられるだけの絆が、確かに育っていた。
だから──今度こそ、ちゃんと。
心からの「好き」を、まっすぐに届けよう。
それが、今日の小さな誓いだった。
【第十一章:告白のような口実】(終)



