六月の空は、まるで心の中を映し出すかのように曇っていた。どこか湿気を含んだ空気が街に漂い、梅雨入り目前の空は、晴れようとする意思と雨を降らせようとする気まぐれの間を彷徨っていた。オフィス街を吹き抜ける風もどこか気だるく、人々の足取りは日々の繰り返しに飲み込まれていく。
 堀田愛奈は、そんな曖昧な天気の中、社内会議室の窓からぼんやりと外を眺めていた。先週のトラブルがようやく収束し、職場には静かな平穏が戻っていた。社内でも亮祐の行動は高く評価され、信頼と尊敬のまなざしが彼に向けられているのを感じる場面が増えた。それが、彼の努力と誠実さの賜物であることを、愛奈は誰よりもよく知っていた。
 けれど、そんな空気の中で、彼女の心には小さなざわめきが芽を出していた。
 それを最初に耳にしたのは、ほんの偶然だった。コピー機の前で、他部署の主任が何気なく話していた言葉の断片。
 「加藤さん、海外チームのリーダー候補に挙がってるらしいね。NYの本社出向、相当な抜擢だって」
 その一言に、心臓が微かに脈を乱した。聞き間違いかと思ったが、主任たちは確かに笑いながら話していた。「やっぱりやる男は違うよな」「あの落ち着きと、あの行動力なら納得だよ」と。
 資料を抱えたまま、足が止まって動かなくなる。頭では理解しようとするのに、胸がうまく追いつかない。亮祐が海外に──それはつまり、ここから“いなくなる”可能性を意味していた。
 会議室に戻っても、心はずっとそこで止まったままだった。彼の夢を、彼の才能を、誰よりも信じていた。だからこそ、複雑だった。応援したい。でも、怖い。自分の手の中から、何かがすり抜けていくような感覚。
 その日の夕方、愛奈は定時ぴったりに退社した。珍しくオフィスで亮祐の姿を見かけなかったことが、さらに不安を煽った。駅までの帰り道、普段なら歩きながらメッセージを送ることもあったが、今日はどうしてもその気になれなかった。
 家に帰り、明かりのついたリビングに座っても、気持ちは晴れなかった。花瓶に差してあったあの夜の花束は、まだきれいに咲いていた。ふと手に取ったチューリップの一輪が、静かに首を垂れていた。思わず指先でそっと支えたその瞬間、涙がこぼれそうになった。
 「……離れたくないよ」
 ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かない。自分の胸にだけ落ちて、静かに沈んでいく。
 次の日、愛奈はいつもより早めに出社した。少しでも落ち着きたくて、職場に身を置こうとしたのだろう。けれど、そんな朝に限って、亮祐はもう自席にいて、パソコンに向かっていた。
 「おはようございます」
 声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げ、それからすぐに微笑んだ。
 「おはようございます。……早いですね、今日は」
 「うん、なんとなく。……眠れなかったから」
 亮祐は少しだけ表情を曇らせたが、すぐに平静を装った。けれどその目には、何かを隠している色があった。気づいていないはずがない。あの人は、愛奈の表情の変化にいつも誰よりも早く気づく人だ。
 その日の午後、部内の報告会議の後、亮祐がふたりきりの時間を取ろうとしてくれたのは、やはり何かを伝えたかったからだったのだと、あとになって気づく。
 会議室の端で、彼は静かに口を開いた。
 「……堀田さん、たぶんもう、聞いてるかもしれませんけど。僕に、海外異動の話が来てます」
 言われた瞬間、心臓が跳ねた。けれど愛奈は、驚いた素振りを見せなかった。ただ、目を見つめ返した。
 「本社からの正式な要請です。ニューヨークの戦略室。プロジェクトリーダーとして……二年契約。任期満了後の帰任も視野に入ってます」
 言葉が、まるで遠くから聞こえてくるようだった。音は届いているのに、意味だけが遅れてやってくる。理解することと、受け入れることの間には、大きな川があった。
 「……行くんですか?」
 それは、愛奈の口から自然に出た言葉だった。問いかけというより、祈るような、震える気持ちの一滴だった。
 亮祐は苦しげに目を伏せ、それから正直に答えた。
 「……わからないんです。行きたい気持ちはある。でも、あなたと離れることを考えると、怖い。怖くて……自分でもどうしたらいいのか、わからない」
 目の奥が熱くなった。何かを握りしめたまま、それを差し出すこともできず、ただ痛みに耐えるような、そんな気持ちだった。
 愛奈は、震える声で尋ねた。
 「私を、置いていかないでって、言ったら……どうしますか?」
 亮祐は黙った。長い沈黙のあと、絞り出すように答えた。
 「それでも、きっと僕は、あなたを忘れられない。でも、あなたがそう言ってくれたら……僕は、行けないかもしれない」
 言葉は正直だった。どちらが正解かわからない不安に、ふたりとも必死で向き合っていた。
 だからこそ、愛奈は思った。この選択は、どちらかを犠牲にするものじゃない。そうじゃなくて、“ふたりで進む未来”を選びたいと。



 静まり返った会議室には、冷房の送風音だけが響いていた。窓の外では雲の切れ間からわずかに日が差し込み、午後の光がガラスに淡く反射している。机の上には何もなく、ただふたりの手だけが近い位置に置かれていたが、決して触れ合ってはいなかった。
 愛奈は、静かに呼吸を整えた。胸の奥に溜まっていたものを、今この瞬間にすべて吐き出さなければ、きっと後悔すると思ったからだ。
 「私、昔……夢を追った人を見送ったことがあるんです。大学の頃の彼、アメリカに留学するって言って、すごく目を輝かせてた。でも私は、その背中を見ているだけしかできなかった。止めることも、支えることもできなかった」
 亮祐は黙って耳を傾けていた。その視線が、彼女の言葉の一つひとつを丁寧にすくい上げてくれているのがわかった。
 「私は、きっと怖かったんです。彼の夢に自分の存在が含まれていなかったことが。置いていかれる寂しさに、耐えられなかった。でも……今回、加藤さんが、あんなにまっすぐ自分の夢と向き合ってる姿を見て、思ったんです。私は、“見送る側”じゃなくて、“一緒に歩く側”になりたいって」
 彼の目が大きく揺れた。その変化に気づきながらも、愛奈は言葉を止めなかった。
 「たとえ距離があっても、時間がかかっても、同じ未来を信じていられる関係でいたい。私、今まで恋に対してどこか受け身だったけど、もう違う。あなたのそばにいたい。そして、あなたの夢を、私の夢にもしたい。……だから──」
 そこまで言って、愛奈はそっと彼の手に触れた。初めて出会った日、カフェで偶然隣り合わせたあの日とは違う。電車の中で手が重なった日でも、森の中で腕の中に抱きとめられた夜でもない。これは、自分の意志で伸ばした手だった。
 「行ってください、亮祐さん。でも、ひとつだけ……私は、置いていかれませんから」
 涙はこぼれなかった。代わりに、心の中で何かがふわりと解き放たれた。怖くないとまでは言えない。けれど、信じる強さをようやく持てた気がした。彼と築いてきた時間が、その土台になっていた。
 亮祐は、目の奥を赤くしながら、唇を噛みしめていた。そして、震えるように小さく息を吐いたあと、そっとその手を握り返してくれた。
 「……ありがとう、愛奈さん。そんな風に言ってもらえるなんて、思ってなかった。もしこの先、何があっても──僕の人生に、あなたがいてくれるって思えるなら、どんな困難でも乗り越えられる。あなたのその一言が、僕の支えになります」
 そのとき、ようやくふたりの手がしっかりと重なった。離れていた時間も、迷っていた気持ちも、そのすべてが今ここに収束していくような感覚だった。
 後日、正式に海外出向の発表があった。社内では大きな拍手が起こり、亮祐の名前は社内報にまで載った。愛奈も心からその晴れ姿を祝った。けれど、派手な祝賀ムードの裏で、ふたりの間には静かで特別な約束が交わされていた。
 「あなたの夢が叶う場所に、私も足を運ぶ。だから、遠くにいると思わないで」
 「離れていても、心はちゃんとここにあるって、信じられるようになったから」
 見送る日。空港の出発ゲート前で、ふたりは再び手を握った。周囲の喧騒のなかで交わされたのは、静かなキスだった。長くも、重たくもない。ただ、未来を信じるための、ひとつの約束のかたちだった。
 数ヶ月後。愛奈は相変わらず早起きして、いつものカフェでコーヒーを頼んでいた。あの日と同じ席で、ノートパソコンを広げ、仕事の下準備をする。メールの受信音が鳴り、海外からの連絡が届いていた。
 『今、セントラルパークのベンチで一息ついています。君の手が恋しい。次に会える日まで、もう少しだけ夢を追ってきます。──亮祐』
 愛奈はスマホを胸元に抱き、そっと目を閉じた。寂しさの代わりに、確かな想いが胸にあった。あの日、触れた手の温もりが、今も心の中に灯り続けている。
 愛って、きっとこういうもの。すぐそばにいなくても、ちゃんと届く。夢の途中でも、きちんと繋がっていられる。
 そして、それは“最後の選択肢”じゃない。新しい“始まり”への扉だったのだと、今なら心から思える。
 【第十章:最後の選択肢】(終)