冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

――休日の朝。

出社したビルのロビーは、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
自動ドアの開閉音すら、やけに大きく聞こえる。

スーツではなく、カジュアルなジャケット。
タイも締めていない。
仕事はするが、“戦う”つもりで来たわけじゃない。

急なトラブルで、客先に提出予定だった資料に不備が見つかり、至急の対応が必要になった。
連絡を受けたのは昨日の深夜。
週明けでは間に合わない。

そして、そんな状況で――

「……おはようございます、専務」

俺が自席についたとき、彼女はすでに来ていた。

「おはよう。……早かったな」

「準備に少し時間がかかるかと思って」

いつもより自然に、声を交わせた気がした。

社内に他の人間がいないというだけで、こんなにも空気は変わるのかと、思った。

いつもの緊張感、ピリついた空気、視線や評価にさらされる“戦場”のような場所ではなく、
ただの、仕事をこなす空間。

その変化が、彼女を――いや、俺自身をも、どこか素直にさせた。

資料の修正作業は、思ったより手間がかかった。
二人で並んでパソコンを操作し、時折データを照合し、過去のファイルを引っ張り出す。

「この部分、レイアウトだけ変えて内容はそのままですね」

「そうだ。クライアントが気にしているのは、視認性の方だ」

「なるほど……だったら、ここを強調にして、色も変えてしまったほうがいいかもしれません」

「任せる。君の方が見せ方に詳しいだろう」

肩を並べて作業する時間。
言葉を交わすたび、緊張よりも穏やかさが勝っていく。

こういうのを、居心地がいいって言うんだろうな――
そんなことを、思ってしまった。

ふと、彼女が俺のマグカップを手に取った。

「紅茶、入れてきますね。さすがに脳が疲れそうですから」

「……頼む」

柔らかく返事をしながら、どこか気が緩んでいる自分に気づく。

(最初から、こんなふうに話せていたら)

彼女が新人で入ってきたとき、俺はあまりにも冷たく接していた。

“勘違いされたくない”
“深入りさせない”
“気を持たせない”

そんなことばかりを優先して、距離を取ってきた。

けれど今。

彼女と並んで仕事をしていて、少しだけ――後悔していた。

あのとき、こんなふうに普通に話せていたら、
もっと早く、この“やわらかい空気”を知ることができたのかもしれない。

紅茶の香りがほのかに漂う中、少し休憩を取る。

彼女がデスクの隅で、腕を軽く伸ばしている。

「やっぱり、休日にパソコン作業はきついですね」

「まあ、確かに……」

自然と、笑ってしまった。

「俺も、こんな日曜は初めてかもしれないな。君とふたりきりで、資料修正に追われるなんて」

「ふふ、まさかですよね」

その“ふふっ”という声に、心がふっと緩む。

こんなふうに笑い合える時間があることを、
このオフィスで、いつか想像できていただろうか。

そのあとも作業は続いたが、不思議と疲れは少なかった。

“効率”や“指示”ではなく、“会話”と“呼吸”で進んでいく時間。

完成した資料を見届けて、ようやく深く息を吐く。

「……終わったな」

「はい。お疲れさまでした」

見上げた顔に、やわらかな光が差していた。

休日の午後。
誰もいない社内で生まれた、静かな時間とやわらかな空気。

ふたりの距離は、変わらなかったかもしれない。

でも、確かに心は――ほんの少しだけ、近づいていた。