「パパ、おはようー!」
朝、玄関で無邪気に手を振る声に、俺は思わず苦笑した。
「違うだろ、心春。靴、左右逆だぞ」
「あれっ……ほんとだー!」
そう言って、くるくると靴を脱ぎ始めた小さな背中。
まだ少しだけ手のかかる、でも、かけたくなる存在――
姪の、心春。
姉・茉莉が生前に残した、たったひとりの娘だ。
本当の父親ではない。
でも俺は、今この子にとって“パパ”であることを求められている。
そして、それを拒む理由は、ひとつもなかった。
数年前の春。
それは突然、訪れた。
「一ノ瀬さん……お姉様と、ご主人が……」
深夜、会社からの帰宅途中。
震えるような声でかかってきた電話を、俺は最初、聞き間違いだと思った。
事故だった。
高速道路での多重衝突。
相手の不注意。
理不尽すぎる形で、姉とその夫は命を落とした。
信じられない現実に、声が出なかった。
その夜は父と一緒に、病院の廊下でただ黙って座っていた。
心春は、その時まだ二歳半。
「ママ」「パパ」が何を意味していたのか、正確には分かっていなかったかもしれない。
けれど、それでも――何かを感じ取っていたのだろう。
「ママ、ねんね?パパ、おしごと……?」
小さな声で、繰り返していた言葉が今でも耳に残っている。
葬儀が終わり、親族が去ったあと。
心春は、俺のシャツの裾を握って、離さなかった。
「……心春ちゃん、今は実家でお祖父さまと暮らしてるのよね?」
親族のひとりが言ったその言葉に、俺の父――社長の一ノ瀬厳(いちのせ・いわお)は、静かに首を振った。
「茉莉の娘だ。うちで預かる」
その言葉に、誰も逆らえなかった。
大企業の社長という立場に加え、亡き長女への深い愛情が込められたその言葉は、重く、揺るがなかった。
もちろん、俺にも何の異論もなかった。
――ただ、正直に言えば、不安はあった。
どうやって、幼い子どもと一緒に暮らせばいいのか。
どう接すれば、あの子は笑ってくれるのか。
心春にとって、俺は“何”であればいいのか。
わからないことばかりだった。
けれど、月日は、確かに少しずつ変えていった。
最初は、全然懐いてくれなかった。
笑わないし、よく泣いた。
抱こうとすれば逃げられ、食事のときも俺を見ようとしなかった。
それが変わったのは、ある雨の日だった。
俺が仕事から早く帰れたある夕方。
心春が、リビングの隅でポツンと座って泣いていた。
「どうした」
「……パパのかお、わすれちゃうの……」
俺は言葉を失った。
それは――心春の“本当のパパ”のことを、言っていたのだろう。
二歳半で記憶を保つことの難しさ。
写真に写った人の顔が、だんだんわからなくなっていく不安。
それを、こんな小さな子が抱えているという事実に、胸が締めつけられた。
だから、俺はそっと、心春を抱き上げて言った。
「お前のパパは、心春のこと、ずっと見てるよ。ちゃんとここにいる」
心春は、俺の胸に顔をうずめて、声をあげて泣いた。
その日を境に、少しずつ変化があった。
最初は「颯真」と呼ばれていた。
それが、「そーまくん」になり、「そーま」になり――
ある日、気づけば、「パパ」になっていた。
「パパ、あのね、おえかきしたの」
「パパ、だっこー!」
自然と、そう呼ばれるようになった瞬間。
俺は、なぜか、泣きそうになった。
「父親代わり」なんて大それたものじゃない。
俺は、ただ――あの子が悲しまないように、毎日を共に生きているだけだ。
でも、そんな日々のなかで、俺にとって心春は、確かに“守るべきもの”になっていった。
会社では、そのことを公にはしていない。
プライベートを語るのが好きじゃないというのもあるが、それ以上に――
「子どもがいる」という情報が、余計な噂を呼ぶことが嫌だった。
心春の存在を、誰かの興味本位に触れられるのが、嫌だった。
だから、保育園の送り迎えも、できるだけ人の目に触れないように時間を調整している。
午後四時を少し過ぎたころ、スマートフォンに短い通知が届いた。
【保育園連絡:体調変化なし・お迎え連絡なし】
ふと胸ポケットに手をやり、ディスプレイを確認する。
特に問題はない。それだけの報告。
なのに、その通知を見るだけで、どこか心が落ち着くのは、自分でも不思議だった。
机の上には、まだ今日中に目を通すべき契約書と、週明けの役員会議資料が山のように残っている。
けれど、俺は手元の腕時計に目を落とした。
17:30。
(……今日なら、間に合うか)
自然と、胸の奥にひとつの問いが浮かぶ。
「今日は、パパがいい」――
心春のその言葉が、ふと脳裏に甦った。
保育園に迎えに行けるのは、週に一度か二度がやっとだった。
部下には定時以降のフォローを任せ、要件を最小限に整理して、急ぎのものは社用携帯で対応する。
誰よりも早く出社して誰よりも遅く退社していた頃の自分なら、考えもしなかった選択。
でも――
「今日はパパがいいって言ってるんですけど、どうしますか?」
夕方に連絡をくれる園の先生の声が、申し訳なさそうなのが、逆にこたえる。
(……だったら、行くしかない)
忙しさは言い訳にならない。
心春は、誰よりも頑張っている。
たったひとりで、“あの事故”を乗り越えてきた。
小さな体で、大きな喪失を受け止めて、今ここに笑っている。
だからこそ、俺は――
この子が求めてくれるうちは、できるだけ応えたいと思っている。
保育園に着くと、心春はすぐに気づいて駆け寄ってくる。
「パパー!」
声が透き通って響く。
それだけで、今日の疲れがふっと抜けるようだった。
「おいおい、走ると危ないぞ」
苦笑しながらも、俺は自然と膝を折って、彼女の小さな体を受け止める。
腕の中におさまるぬくもり。
柔らかくて、あたたかくて、どこか懐かしい匂いがする。
「今日は、パパ、おしごとおわったの?」
「ああ、終わった。心春のとこ来たかったからな」
その言葉に、ぱぁっと笑う顔が、何よりの報酬だった。
ただ、その笑顔を見せる相手は――あくまでも“外”の顔。
社内では、心春の存在についてほとんど誰にも語っていない。
あくまで俺は「社長の息子で専務で、若くして経営を任された冷徹な男」でいる。
「子どもがいる」と知れば、周囲はどう思うだろう。
――あの人の奥さんになる女ってどんな人?
――秘書課の女たちが騒ぎ出すぞ。
――手を出せないとわかったら、近づかないだろうな。
面倒だ。
それに、何より――
心春を、自分の“武器”として扱いたくない。
「家庭があること」で安心させるようなことを、したくない。
そういう私生活を“人間味”として利用するようなやり方が、どうしても好きになれない。
俺は、俺自身の仕事で、信頼を得たい。
冷たいと言われてもいい。
無愛想だと思われても構わない。
でも――心春だけは、俺の“弱さ”を知っていい。
この子の前だけでは、頑張らなくていいから。
「パパ、あのね、きょうおえかきでね、ぞうさんかいたの」
「お、ぞうさんか。どんなのだ?」
「みてー!」
彼女が大切そうに見せてくれたのは、青とピンクで描かれた、大きなぞうの絵。
子どもの絵には、その日一日の心が詰まっている。
「……お前、絵、上手くなったな」
「えへへー、パパ、いっつもそういってくれるー」
その笑顔が、全部だった。
仕事のことも、過去のことも、誰にも見せられない想いも――全部一度忘れて。
この子の声と、ぬくもりだけを感じていられる時間。
それが、俺にとって唯一の“安らぎ”だった。
そして、同時に。
(誰にも、知られたくない)
この時間を、他人に見せる気はない。
守るべきものは、守る手段も選ばなければいけない。
冷たいと思われても、それでいい。
この子が笑ってくれているなら、それだけで――充分だった。
朝、玄関で無邪気に手を振る声に、俺は思わず苦笑した。
「違うだろ、心春。靴、左右逆だぞ」
「あれっ……ほんとだー!」
そう言って、くるくると靴を脱ぎ始めた小さな背中。
まだ少しだけ手のかかる、でも、かけたくなる存在――
姪の、心春。
姉・茉莉が生前に残した、たったひとりの娘だ。
本当の父親ではない。
でも俺は、今この子にとって“パパ”であることを求められている。
そして、それを拒む理由は、ひとつもなかった。
数年前の春。
それは突然、訪れた。
「一ノ瀬さん……お姉様と、ご主人が……」
深夜、会社からの帰宅途中。
震えるような声でかかってきた電話を、俺は最初、聞き間違いだと思った。
事故だった。
高速道路での多重衝突。
相手の不注意。
理不尽すぎる形で、姉とその夫は命を落とした。
信じられない現実に、声が出なかった。
その夜は父と一緒に、病院の廊下でただ黙って座っていた。
心春は、その時まだ二歳半。
「ママ」「パパ」が何を意味していたのか、正確には分かっていなかったかもしれない。
けれど、それでも――何かを感じ取っていたのだろう。
「ママ、ねんね?パパ、おしごと……?」
小さな声で、繰り返していた言葉が今でも耳に残っている。
葬儀が終わり、親族が去ったあと。
心春は、俺のシャツの裾を握って、離さなかった。
「……心春ちゃん、今は実家でお祖父さまと暮らしてるのよね?」
親族のひとりが言ったその言葉に、俺の父――社長の一ノ瀬厳(いちのせ・いわお)は、静かに首を振った。
「茉莉の娘だ。うちで預かる」
その言葉に、誰も逆らえなかった。
大企業の社長という立場に加え、亡き長女への深い愛情が込められたその言葉は、重く、揺るがなかった。
もちろん、俺にも何の異論もなかった。
――ただ、正直に言えば、不安はあった。
どうやって、幼い子どもと一緒に暮らせばいいのか。
どう接すれば、あの子は笑ってくれるのか。
心春にとって、俺は“何”であればいいのか。
わからないことばかりだった。
けれど、月日は、確かに少しずつ変えていった。
最初は、全然懐いてくれなかった。
笑わないし、よく泣いた。
抱こうとすれば逃げられ、食事のときも俺を見ようとしなかった。
それが変わったのは、ある雨の日だった。
俺が仕事から早く帰れたある夕方。
心春が、リビングの隅でポツンと座って泣いていた。
「どうした」
「……パパのかお、わすれちゃうの……」
俺は言葉を失った。
それは――心春の“本当のパパ”のことを、言っていたのだろう。
二歳半で記憶を保つことの難しさ。
写真に写った人の顔が、だんだんわからなくなっていく不安。
それを、こんな小さな子が抱えているという事実に、胸が締めつけられた。
だから、俺はそっと、心春を抱き上げて言った。
「お前のパパは、心春のこと、ずっと見てるよ。ちゃんとここにいる」
心春は、俺の胸に顔をうずめて、声をあげて泣いた。
その日を境に、少しずつ変化があった。
最初は「颯真」と呼ばれていた。
それが、「そーまくん」になり、「そーま」になり――
ある日、気づけば、「パパ」になっていた。
「パパ、あのね、おえかきしたの」
「パパ、だっこー!」
自然と、そう呼ばれるようになった瞬間。
俺は、なぜか、泣きそうになった。
「父親代わり」なんて大それたものじゃない。
俺は、ただ――あの子が悲しまないように、毎日を共に生きているだけだ。
でも、そんな日々のなかで、俺にとって心春は、確かに“守るべきもの”になっていった。
会社では、そのことを公にはしていない。
プライベートを語るのが好きじゃないというのもあるが、それ以上に――
「子どもがいる」という情報が、余計な噂を呼ぶことが嫌だった。
心春の存在を、誰かの興味本位に触れられるのが、嫌だった。
だから、保育園の送り迎えも、できるだけ人の目に触れないように時間を調整している。
午後四時を少し過ぎたころ、スマートフォンに短い通知が届いた。
【保育園連絡:体調変化なし・お迎え連絡なし】
ふと胸ポケットに手をやり、ディスプレイを確認する。
特に問題はない。それだけの報告。
なのに、その通知を見るだけで、どこか心が落ち着くのは、自分でも不思議だった。
机の上には、まだ今日中に目を通すべき契約書と、週明けの役員会議資料が山のように残っている。
けれど、俺は手元の腕時計に目を落とした。
17:30。
(……今日なら、間に合うか)
自然と、胸の奥にひとつの問いが浮かぶ。
「今日は、パパがいい」――
心春のその言葉が、ふと脳裏に甦った。
保育園に迎えに行けるのは、週に一度か二度がやっとだった。
部下には定時以降のフォローを任せ、要件を最小限に整理して、急ぎのものは社用携帯で対応する。
誰よりも早く出社して誰よりも遅く退社していた頃の自分なら、考えもしなかった選択。
でも――
「今日はパパがいいって言ってるんですけど、どうしますか?」
夕方に連絡をくれる園の先生の声が、申し訳なさそうなのが、逆にこたえる。
(……だったら、行くしかない)
忙しさは言い訳にならない。
心春は、誰よりも頑張っている。
たったひとりで、“あの事故”を乗り越えてきた。
小さな体で、大きな喪失を受け止めて、今ここに笑っている。
だからこそ、俺は――
この子が求めてくれるうちは、できるだけ応えたいと思っている。
保育園に着くと、心春はすぐに気づいて駆け寄ってくる。
「パパー!」
声が透き通って響く。
それだけで、今日の疲れがふっと抜けるようだった。
「おいおい、走ると危ないぞ」
苦笑しながらも、俺は自然と膝を折って、彼女の小さな体を受け止める。
腕の中におさまるぬくもり。
柔らかくて、あたたかくて、どこか懐かしい匂いがする。
「今日は、パパ、おしごとおわったの?」
「ああ、終わった。心春のとこ来たかったからな」
その言葉に、ぱぁっと笑う顔が、何よりの報酬だった。
ただ、その笑顔を見せる相手は――あくまでも“外”の顔。
社内では、心春の存在についてほとんど誰にも語っていない。
あくまで俺は「社長の息子で専務で、若くして経営を任された冷徹な男」でいる。
「子どもがいる」と知れば、周囲はどう思うだろう。
――あの人の奥さんになる女ってどんな人?
――秘書課の女たちが騒ぎ出すぞ。
――手を出せないとわかったら、近づかないだろうな。
面倒だ。
それに、何より――
心春を、自分の“武器”として扱いたくない。
「家庭があること」で安心させるようなことを、したくない。
そういう私生活を“人間味”として利用するようなやり方が、どうしても好きになれない。
俺は、俺自身の仕事で、信頼を得たい。
冷たいと言われてもいい。
無愛想だと思われても構わない。
でも――心春だけは、俺の“弱さ”を知っていい。
この子の前だけでは、頑張らなくていいから。
「パパ、あのね、きょうおえかきでね、ぞうさんかいたの」
「お、ぞうさんか。どんなのだ?」
「みてー!」
彼女が大切そうに見せてくれたのは、青とピンクで描かれた、大きなぞうの絵。
子どもの絵には、その日一日の心が詰まっている。
「……お前、絵、上手くなったな」
「えへへー、パパ、いっつもそういってくれるー」
その笑顔が、全部だった。
仕事のことも、過去のことも、誰にも見せられない想いも――全部一度忘れて。
この子の声と、ぬくもりだけを感じていられる時間。
それが、俺にとって唯一の“安らぎ”だった。
そして、同時に。
(誰にも、知られたくない)
この時間を、他人に見せる気はない。
守るべきものは、守る手段も選ばなければいけない。
冷たいと思われても、それでいい。
この子が笑ってくれているなら、それだけで――充分だった。



