「じゃあ行きましょうか。専務は今日、午前中に少し時間が空いてるはずだから」
吉原主任の一言で、心臓が跳ね上がる。
まるで処刑台へと引き出されるような気持ちで、私は緊張の波を飲み込みながら立ち上がった。胸の奥がひどくざわついている。まだ一日も働いていないというのに、もう何度目の深呼吸だろう。
秘書課の一角を抜け、長い廊下を進んでいく。オフィスの雰囲気が変わり、役員フロアへと足を踏み入れた瞬間、空気が一段と張り詰めるのを感じた。廊下の先にある重厚な木製のドア。その向こうに、私の“担当上司”がいる。
専務――
この会社に入る前から、その名前は何度も耳にしていた。経営者一族の中でも異例の若さで役員に昇進し、実績も申し分ない。グループ企業をまとめる戦略部門を任されているやり手だという噂。しかも、雑誌の表紙を飾るほどの端正な顔立ち。
社内で密かに“氷の貴公子”と呼ばれているらしいことも、新人研修のときに女子たちの間でひそひそと語られていた。
けれど、まさか自分がその人の秘書になるなんて――
「ここが専務の執務室よ。ノックは私がするから、あなたはまず挨拶を。簡潔にね」
「は、はい……!」
ノック音が木扉に響く。すぐに「どうぞ」という低く落ち着いた声が返ってきた。その瞬間、背筋がぴんと伸びた。心臓の鼓動が速くなる。吉原主任がドアを開けると、奥に広がるのは静寂と洗練を兼ね備えた空間だった。
グレーを基調としたインテリアに、背の高い書棚。大きなデスクの向こうには、紺色のスーツに身を包んだ男性がいた。端整な横顔。無駄のない所作でペンを置き、こちらに視線を向ける。
目が合った瞬間、体温が一気に下がるような錯覚に陥った。
鋭くも冷静な眼差しは、まるでこちらの内面までもを見透かすかのようで、自然と背筋に緊張が走る。モデルのように整った顔立ちなのに、笑っていない。その冷たさが、彼の美貌をより際立たせていた。
「専務、こちらが本日より配属された新人秘書です。ご挨拶を」
促され、私は一歩前に出る。手のひらが湿っている。口の中が乾いて、声がうまく出るか不安になる。
「はじめまして。本日より秘書課に配属されました、新入社員の高梨澪(たかなし みお)です。これからどうぞよろしくお願いいたします」
一礼しながら声を振り絞る。沈黙。顔を上げると、専務はじっと私を見つめていた。目の奥が読めない。何を考えているのか、どんな印象を持たれたのか、まったくつかめない。
「……新人、ね」
低く、感情の読めない声だった。まるで確認するかのように呟いたあと、彼は手元の書類に視線を落としながら淡々と続けた。
「君が何をできるかは知らないし、最初から期待もしていない。仕事は結果がすべてだ。わかった?」
一瞬、耳を疑った。あまりにストレートな言葉に、息が止まりそうになる。私の頬が、じんわりと熱くなっていくのがわかった。
「……はい。承知しました」
なんとか声を絞り出す。彼はそれ以上何も言わず、視線を資料へと戻した。
吉原主任が小さくため息をつきながらも、「それじゃ、失礼しますね」と形ばかりの挨拶をして、その場を後にした。私もそれに続いて部屋を出る。扉が閉まった瞬間、足がふらついた。
「……あれが、専務です」
主任の口ぶりには皮肉のようなものが混じっていた。
「厳しいけど、情はある人よ。……まあ、それを感じられるまでに辞めないといいけどね」
それは冗談なのか、それとも現実なのか。
初めて顔を合わせた“上司”は、思っていたよりも遥かに冷たく、近づきがたい存在だった。人間味を感じさせない態度も、表情も、言葉も――すべてが完璧に管理されていて、こちらの気持ちの入り込む隙がなかった。
(期待されてないんだ……)
胸の奥に、どすんと重たいものが落ちた。初日だから、まだ何もできないのは当たり前だ。そう分かっているのに、その一言がどうしても頭の中でぐるぐると回り続けてしまう。
私の社会人生活は、こんなにも厳しい第一歩から始まった。
吉原主任の一言で、心臓が跳ね上がる。
まるで処刑台へと引き出されるような気持ちで、私は緊張の波を飲み込みながら立ち上がった。胸の奥がひどくざわついている。まだ一日も働いていないというのに、もう何度目の深呼吸だろう。
秘書課の一角を抜け、長い廊下を進んでいく。オフィスの雰囲気が変わり、役員フロアへと足を踏み入れた瞬間、空気が一段と張り詰めるのを感じた。廊下の先にある重厚な木製のドア。その向こうに、私の“担当上司”がいる。
専務――
この会社に入る前から、その名前は何度も耳にしていた。経営者一族の中でも異例の若さで役員に昇進し、実績も申し分ない。グループ企業をまとめる戦略部門を任されているやり手だという噂。しかも、雑誌の表紙を飾るほどの端正な顔立ち。
社内で密かに“氷の貴公子”と呼ばれているらしいことも、新人研修のときに女子たちの間でひそひそと語られていた。
けれど、まさか自分がその人の秘書になるなんて――
「ここが専務の執務室よ。ノックは私がするから、あなたはまず挨拶を。簡潔にね」
「は、はい……!」
ノック音が木扉に響く。すぐに「どうぞ」という低く落ち着いた声が返ってきた。その瞬間、背筋がぴんと伸びた。心臓の鼓動が速くなる。吉原主任がドアを開けると、奥に広がるのは静寂と洗練を兼ね備えた空間だった。
グレーを基調としたインテリアに、背の高い書棚。大きなデスクの向こうには、紺色のスーツに身を包んだ男性がいた。端整な横顔。無駄のない所作でペンを置き、こちらに視線を向ける。
目が合った瞬間、体温が一気に下がるような錯覚に陥った。
鋭くも冷静な眼差しは、まるでこちらの内面までもを見透かすかのようで、自然と背筋に緊張が走る。モデルのように整った顔立ちなのに、笑っていない。その冷たさが、彼の美貌をより際立たせていた。
「専務、こちらが本日より配属された新人秘書です。ご挨拶を」
促され、私は一歩前に出る。手のひらが湿っている。口の中が乾いて、声がうまく出るか不安になる。
「はじめまして。本日より秘書課に配属されました、新入社員の高梨澪(たかなし みお)です。これからどうぞよろしくお願いいたします」
一礼しながら声を振り絞る。沈黙。顔を上げると、専務はじっと私を見つめていた。目の奥が読めない。何を考えているのか、どんな印象を持たれたのか、まったくつかめない。
「……新人、ね」
低く、感情の読めない声だった。まるで確認するかのように呟いたあと、彼は手元の書類に視線を落としながら淡々と続けた。
「君が何をできるかは知らないし、最初から期待もしていない。仕事は結果がすべてだ。わかった?」
一瞬、耳を疑った。あまりにストレートな言葉に、息が止まりそうになる。私の頬が、じんわりと熱くなっていくのがわかった。
「……はい。承知しました」
なんとか声を絞り出す。彼はそれ以上何も言わず、視線を資料へと戻した。
吉原主任が小さくため息をつきながらも、「それじゃ、失礼しますね」と形ばかりの挨拶をして、その場を後にした。私もそれに続いて部屋を出る。扉が閉まった瞬間、足がふらついた。
「……あれが、専務です」
主任の口ぶりには皮肉のようなものが混じっていた。
「厳しいけど、情はある人よ。……まあ、それを感じられるまでに辞めないといいけどね」
それは冗談なのか、それとも現実なのか。
初めて顔を合わせた“上司”は、思っていたよりも遥かに冷たく、近づきがたい存在だった。人間味を感じさせない態度も、表情も、言葉も――すべてが完璧に管理されていて、こちらの気持ちの入り込む隙がなかった。
(期待されてないんだ……)
胸の奥に、どすんと重たいものが落ちた。初日だから、まだ何もできないのは当たり前だ。そう分かっているのに、その一言がどうしても頭の中でぐるぐると回り続けてしまう。
私の社会人生活は、こんなにも厳しい第一歩から始まった。



