「あの人には、家庭がある」
そう思うたびに、胸の奥が苦しくなる。
一ノ瀬専務。
社長の息子であり、若くして専務にまで上り詰めた有能な人。
冷徹で、近寄りがたくて、誰もが距離を置く存在。
――だったはずの人。
けれど、私は見てしまった。
社内で子ども向けのCSR企画に真剣に向き合う顔。
「楽しさが大事なんだ」と笑って話す、あたたかくてまっすぐな声。
そして何より――
休日、大学近くの道で。
小さな女の子に「パパ」と呼ばれ、手を引いて歩くその姿。
(あの子が……あの専務の、娘さんなんだ)
まだ保育園児くらいの小さな子。
以前、私が大学のテニスコートのフェンス越しに何度も会話した、あの女の子。
まさか、あの子と一ノ瀬専務が親子だったなんて――
その事実に、私は未だにうまく気持ちの整理がつけられずにいた。
「……高梨さん、今日の資料、ありがとう。見やすかったよ」
一ノ瀬専務がそう言ってくれたのは、会議の直前。
渡した資料にさっと目を通しながら、何気ない声で褒めてくれた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に視線をそらしてしまった。
「いえ……あの、恐縮です」
うまく笑えない。
嬉しいはずだった。
胸の奥があたたかくなるはずだった。
けれど今は、まるで“いけないこと”をしてしまったような気持ちになってしまう。
(私は……この人を、好きになってはいけない)
家庭がある。
子どもがいる。
愛すべき家族がいる。
それを知ってしまったからこそ、今の自分の気持ちが許されるものではないと、何度も何度も頭の中で繰り返していた。
(最低だ……)
そう思うたびに、心の奥が黒く染まっていく。
(どうして、こんな人を好きになってしまったんだろう)
何がきっかけだったのか、自分でももうはっきりとはわからない。
最初は、ただの上司だった。
仕事に厳しく、容赦なく叱責する人。
失敗すれば冷たく突き放され、存在すら否定されるような気持ちになった。
けれど――その冷たさの奥に、ほんの少しだけ見えたもの。
「……まあ、昨日よりはマシ」
「手間かけたな」
「ありがとう。助かったよ」
そんな一言のひとつひとつが、私の中にゆっくりと積み重なって、気づけば、それは“想い”になっていた。
でも、だからこそ。
(好きになってはいけない)
彼の家庭を壊すことになる。
彼の幸せを脅かすことになる。
そんなこと、私が一番してはいけない。
だから私は、今日もまた、視線を逸らした。
彼と目が合いそうになるたびに。
声をかけられたときに。
その表情の奥に、あの“素の笑顔”を思い出しそうになるたびに。
見ないように、聞かないように、感じないように――
懸命に、自分を律していた。
昼休み。
オフィスの屋上。誰もいない風の通る場所。
自販機で買った温かいミルクティーを手に、私はフェンス際に立っていた。
青空の下、ほんの少しの時間だけ、自分を解放できる唯一の場所。
「……私、何やってるんだろう」
誰にも聞かれないように、小さく呟く。
(あの人を、見てはいけない)
(それでも、見てしまう)
(話しかけられると、嬉しい)
(でも、罪悪感でいっぱいになる)
こんなにぐちゃぐちゃな気持ちになるくらいなら――いっそ、何も知らなかったほうが良かったのかもしれない。
専務が子どもと歩いていた姿を見なければ。
あの笑顔を見なければ。
素の声を、あたたかい言葉を、聞かなければ。
私はただの“部下”でいられた。
けれど、もう戻れない。
好きになってしまったことを、私は知ってしまった。
だからこそ、涙が出そうになる。
午後の業務中。書類を抱えてエレベーターを待っていたときのこと。
ふと背後から、彼の声がした。
「高梨さん」
「……はい!」
反射的に振り向いて、少し慌てた声を出してしまった。
専務は、私の反応に少し驚いたように眉を動かした。
「急ぎじゃなければ、今夜の資料、机に置いておいてくれればいいよ。遅くまで残らなくてもいい」
その言葉は、ただの気遣いだった。
でも――
「……ありがとうございます」
そう答えた瞬間、目の奥が熱くなった。
(優しい……)
それが、たまらなかった。
優しくされることが、こんなに苦しいなんて思ってもみなかった。
(好きになってはいけない人に、優しくされるなんて)
こんなにも胸が詰まって、涙がにじむなんて、誰が想像しただろう。
「……じゃあ、よろしく」
短くそう言って、彼はエレベーターに乗り込んでいった。
その背中が見えなくなった瞬間――私は、誰にも見られていないことを確認して、そっと目頭を押さえた。
泣いてはいけない。
でも、涙は、こぼれそうになっていた。
その夜。帰りの電車の中。
窓に映る自分の顔は、どこか疲れていた。
けれど、目の奥には、たしかに“誰か”が映っていた。
(この気持ちを、どうしたらいいの)
罪悪感と、想いと、仕事との距離感と。
それらすべてが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合って、私を苦しめていた。
それでも、ただひとつだけ確かだったこと――
それは、彼が“優しい人”だということ。
それは、彼が“素敵な人”だということ。
だから私は、こんなにも苦しんでいる。
(好きになってはいけない)
そう言い聞かせるたびに、心のどこかが、軋むように痛んだ。
けれど――その痛みさえも、私はどこかで“好き”だと思ってしまっていた。
だって、誰かを真剣に想うことなんて、人生でそう何度もあることじゃない。
だから、この気持ちだけは――誰にも言えなくても、大切にしまっておこう。
苦しくても、せめて心の中では、彼を想っていたい。
それが今の私にできる、唯一の“誠実さ”だった。
そう思うたびに、胸の奥が苦しくなる。
一ノ瀬専務。
社長の息子であり、若くして専務にまで上り詰めた有能な人。
冷徹で、近寄りがたくて、誰もが距離を置く存在。
――だったはずの人。
けれど、私は見てしまった。
社内で子ども向けのCSR企画に真剣に向き合う顔。
「楽しさが大事なんだ」と笑って話す、あたたかくてまっすぐな声。
そして何より――
休日、大学近くの道で。
小さな女の子に「パパ」と呼ばれ、手を引いて歩くその姿。
(あの子が……あの専務の、娘さんなんだ)
まだ保育園児くらいの小さな子。
以前、私が大学のテニスコートのフェンス越しに何度も会話した、あの女の子。
まさか、あの子と一ノ瀬専務が親子だったなんて――
その事実に、私は未だにうまく気持ちの整理がつけられずにいた。
「……高梨さん、今日の資料、ありがとう。見やすかったよ」
一ノ瀬専務がそう言ってくれたのは、会議の直前。
渡した資料にさっと目を通しながら、何気ない声で褒めてくれた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に視線をそらしてしまった。
「いえ……あの、恐縮です」
うまく笑えない。
嬉しいはずだった。
胸の奥があたたかくなるはずだった。
けれど今は、まるで“いけないこと”をしてしまったような気持ちになってしまう。
(私は……この人を、好きになってはいけない)
家庭がある。
子どもがいる。
愛すべき家族がいる。
それを知ってしまったからこそ、今の自分の気持ちが許されるものではないと、何度も何度も頭の中で繰り返していた。
(最低だ……)
そう思うたびに、心の奥が黒く染まっていく。
(どうして、こんな人を好きになってしまったんだろう)
何がきっかけだったのか、自分でももうはっきりとはわからない。
最初は、ただの上司だった。
仕事に厳しく、容赦なく叱責する人。
失敗すれば冷たく突き放され、存在すら否定されるような気持ちになった。
けれど――その冷たさの奥に、ほんの少しだけ見えたもの。
「……まあ、昨日よりはマシ」
「手間かけたな」
「ありがとう。助かったよ」
そんな一言のひとつひとつが、私の中にゆっくりと積み重なって、気づけば、それは“想い”になっていた。
でも、だからこそ。
(好きになってはいけない)
彼の家庭を壊すことになる。
彼の幸せを脅かすことになる。
そんなこと、私が一番してはいけない。
だから私は、今日もまた、視線を逸らした。
彼と目が合いそうになるたびに。
声をかけられたときに。
その表情の奥に、あの“素の笑顔”を思い出しそうになるたびに。
見ないように、聞かないように、感じないように――
懸命に、自分を律していた。
昼休み。
オフィスの屋上。誰もいない風の通る場所。
自販機で買った温かいミルクティーを手に、私はフェンス際に立っていた。
青空の下、ほんの少しの時間だけ、自分を解放できる唯一の場所。
「……私、何やってるんだろう」
誰にも聞かれないように、小さく呟く。
(あの人を、見てはいけない)
(それでも、見てしまう)
(話しかけられると、嬉しい)
(でも、罪悪感でいっぱいになる)
こんなにぐちゃぐちゃな気持ちになるくらいなら――いっそ、何も知らなかったほうが良かったのかもしれない。
専務が子どもと歩いていた姿を見なければ。
あの笑顔を見なければ。
素の声を、あたたかい言葉を、聞かなければ。
私はただの“部下”でいられた。
けれど、もう戻れない。
好きになってしまったことを、私は知ってしまった。
だからこそ、涙が出そうになる。
午後の業務中。書類を抱えてエレベーターを待っていたときのこと。
ふと背後から、彼の声がした。
「高梨さん」
「……はい!」
反射的に振り向いて、少し慌てた声を出してしまった。
専務は、私の反応に少し驚いたように眉を動かした。
「急ぎじゃなければ、今夜の資料、机に置いておいてくれればいいよ。遅くまで残らなくてもいい」
その言葉は、ただの気遣いだった。
でも――
「……ありがとうございます」
そう答えた瞬間、目の奥が熱くなった。
(優しい……)
それが、たまらなかった。
優しくされることが、こんなに苦しいなんて思ってもみなかった。
(好きになってはいけない人に、優しくされるなんて)
こんなにも胸が詰まって、涙がにじむなんて、誰が想像しただろう。
「……じゃあ、よろしく」
短くそう言って、彼はエレベーターに乗り込んでいった。
その背中が見えなくなった瞬間――私は、誰にも見られていないことを確認して、そっと目頭を押さえた。
泣いてはいけない。
でも、涙は、こぼれそうになっていた。
その夜。帰りの電車の中。
窓に映る自分の顔は、どこか疲れていた。
けれど、目の奥には、たしかに“誰か”が映っていた。
(この気持ちを、どうしたらいいの)
罪悪感と、想いと、仕事との距離感と。
それらすべてが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まり合って、私を苦しめていた。
それでも、ただひとつだけ確かだったこと――
それは、彼が“優しい人”だということ。
それは、彼が“素敵な人”だということ。
だから私は、こんなにも苦しんでいる。
(好きになってはいけない)
そう言い聞かせるたびに、心のどこかが、軋むように痛んだ。
けれど――その痛みさえも、私はどこかで“好き”だと思ってしまっていた。
だって、誰かを真剣に想うことなんて、人生でそう何度もあることじゃない。
だから、この気持ちだけは――誰にも言えなくても、大切にしまっておこう。
苦しくても、せめて心の中では、彼を想っていたい。
それが今の私にできる、唯一の“誠実さ”だった。



