冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

この数日――私は、彼との距離が少しだけ近づいた気がしていた。

確かな証拠があるわけじゃない。
でも、朝に交わす挨拶の温度、資料を渡すときの目線、短い言葉の節々――
そのひとつひとつが、前よりもほんの少しだけ、やわらかく、穏やかに感じられた。

「助かったよ」

そう言われたのは、昨日の夕方だった。

資料に添えた補足メモ。
大したことではなかったけれど、見やすいように色分けしたり、順番に工夫を凝らして渡したそれを、彼は“自然に”受け取り、“当たり前のように”感謝を口にした。

「これ、手間かけたな」
「ありがとう」
「分かりやすかった」

一言一言は短くて、感情をあらわにするようなものではなかった。
でも、その言葉たちが私の心に与える影響は、驚くほど大きかった。

(ちゃんと、見てくれている)

その事実が、私の心を静かに、でもしっかりと満たしていく。

今朝もいつも通りの時間に出勤した。
でも、心の中はどこか、違っていた。

周囲の視線が怖くない。
誰かの声に怯えなくていい。
専務の執務室に向かうときも、胸を張って歩ける。

そんな“穏やかさ”が、今の私を包んでいた。

(お互いに……少し、楽になったのかな)

彼の表情も、前ほど固くない。
私のことを見ても、眉をひそめることがなくなった。
仕事の指示も、冷たくはあるけれど、どこか柔らかさを帯びていて――何より、私が彼のそばにいることを“自然に”感じられるようになった。

(この距離感……悪くない)

そう思った。

でも。

そう思った“直後”――

胸がぎゅっと締めつけられる。

(ダメだよ……)

だって、彼には家庭がある。

休日、あの子――心春ちゃんに向けて見せていた、優しい“父親の顔”を私は知っている。
誰よりも大切にしたい存在が、あの人にはちゃんといる。

その人の隣で、家族としての時間を過ごしている“奥さん”が、確かに存在するのだと思っていた。

(そんな人を、好きになってどうするの)

心の中で、何度も何度も問いかける。

(私は、何をやってるの)

誰にも言っていない。
誰にも気づかれていない。
でも、自分ではもう誤魔化せなかった。

私は、一ノ瀬専務のことが、好きになってしまっていた。

午後のことだった。

会議室のレイアウト変更を頼まれ、ひとりで備品を移動させていた。
誰もいない空間。窓の外では、街路樹の若葉がゆっくりと揺れていた。

重たい資料棚の扉を閉めた瞬間、背後から声がした。

「一人でやってたのか?」

振り向くと、そこに彼がいた。

「専務……!」

驚きと同時に、少しだけ声が上ずってしまった。

「他の者に頼もうと思ったのですが……、空いていなくて」

「そうか」

彼は一歩、部屋に入ってきた。

「危なかったら言え。無理するなよ」

「……はい」

静かなやりとりだった。

けれど、その“何気なさ”が、逆に私の心をざわつかせる。

(優しい……)

気遣いの言葉。
今の私には、それがいちばん堪える。

(ダメなのに)

こんなふうに、近くにいてくれることが――
こんなふうに、名前を呼んでくれることが――

嬉しくて、切ない。

「じゃあ、俺は戻る。あとで報告書を」

「かしこまりました」

目を伏せたまま、私は深く頭を下げる。

彼の足音が遠ざかっていく。その気配だけが、胸の奥にしんと響いて残った。

夕方。残業の少ない水曜日の定時を迎え、オフィスはどこか解放的な空気に包まれていた。

私は机の上を片づけながら、手元のメモ帳を見返していた。

今日一日、彼と交わした言葉たち。
そのどれもが、確かに仕事の中で必要な内容だったはずなのに――どこか、それ以上の意味を持って響いている気がしていた。

(これ以上、近づいたら……戻れなくなる)

その想いが、じわじわと胸の奥を占めていく。

今の距離感は、“仕事相手としては理想的”なものだ。
お互いに緊張せず、スムーズに仕事をこなし、過不足なく言葉を交わす。

きっと、他の誰から見ても問題のない関係。

でも、私は――

(隣にいたい)

ただ、隣にいたいと思ってしまう。

笑っていてほしい。
忙しい顔をしていても、私だけには少しだけ心を許してほしい。
仕事の話じゃないことも、たまには話してみたい。

その想いは、止めようとしても止められなかった。

(いけないのに……)

何度も自分を叱る。

でも――

(それでも……私は、専務の隣にいたい)

心の奥の奥で、確かにそう思ってしまった。

帰り道。地下鉄のホームで立ち尽くしていると、スマートフォンの画面にふと映った自分の顔が、思いのほかやわらかく笑っていた。

(こんな顔、今の私しか知らない)

誰にも話していない、胸の内に宿った秘密。

それは痛みと喜びを同時に孕んだ、静かな“恋”だった。

もう引き返せないと、わかっていた。

でも、それでも――この気持ちを大切にしたいと思っていた。

今だけでもいい。
今のこの“やわらかな時間”の中で、彼の隣にいられるなら――

私は、笑っていたかった。