冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

週の真ん中、水曜日。

朝の通勤電車の中は、少しだけ疲労感が混じったような雰囲気だった。吊革に掴まりながら窓の外を眺めている人たちは、誰もがどこか遠い目をしていて、まるで呼吸を整えるようにして静かに一日を始めていた。

私もその一人だった。

だけど、以前のような重たい憂鬱感はなかった。胸の奥が張りつめていた時期を思えば、今はずいぶん呼吸がしやすい。

(朝の空気って、こんなに澄んでたっけ……)

電車を降り、オフィスビルに向かう歩道橋の上から見える空は、淡く霞んだ春の色をしていた。

その色は、心の中にも静かに染み込んでくるようで、不思議と落ち着いた気持ちになれた。

出社してからの業務も、流れるように進んでいた。

出勤簿にサインをし、メールをチェックし、午前中の予定を確認する。会議資料の確認、来客対応、備品の在庫チェック――目の前の仕事を淡々と、でも丁寧にこなす。

ふと気づくと、誰かに呼ばれることなく、ただ“当たり前のように”自分の仕事に集中できていることが、今の私にとってどれだけ特別かを実感した。

少し前までは、視線が刺さるように痛かった。

「また専務のところ?」
「仕事熱心だこと」
「何が目的なのかしらね」

そんな声が背後から聞こえるたびに、胃がきりきりと痛んでいた。

でも、今は――ない。

あの一言を口にしてから、空気が変わった。

「婚約者がいますから」

それは私にとって、本音でも真実でもなかったけれど、今では確かに“守りの盾”になっている。

嘘だけど、静けさをもたらしてくれた。
本当じゃないけれど、私の居場所を守ってくれた。

それだけで、十分だった。

一ノ瀬専務のもとに資料を届けにいく。

会議室の使用予定、取引先との打ち合わせの概要、午前の報告書――内容に抜けがないかを再確認し、要点を付箋で色分けした。ちょっとした工夫だけど、最近はこういう“見せ方”を少しずつ工夫するようにしている。

ノックをして扉を開けると、専務は静かに顔を上げた。

「失礼いたします。本日の資料をお持ちしました」

「……ああ」

手元の書類に目を落としたまま、彼は応じる。

以前なら、まったくこちらを見ずに無言で受け取ることが多かった。返事すらない日もあった。でも最近は、短くても言葉が返ってくる。

そんな些細な違いが、私にとっては大きかった。

資料を手渡す瞬間、指がほんの少しだけ触れた。専務は特に反応を見せず、いつものように静かにページをめくる。

けれど、そのとき、彼がぽつりと呟いた。

「……これ、手間かけたな」

私は、思わず瞬きをした。

(今、褒めてくれた……?)

それは、「よくやった」や「ありがとう」よりも、もっと自然で、日常の中にぽんと投げられたような言葉だった。

でも、その一言が、私の胸にしっかりと届いた。

「……いえ。ありがとうございます」

精一杯、抑えた声で返す。

気づけば、指先にほんの少し、力がこもっていた。

午後、ふとコピー機の前で立ち尽くしていると、総務部の山岡さんに声をかけられた。

「高梨さん、最近表情がやわらかくなったよね」

「えっ、そうですか?」

「うん、最初はもっとピリピリしてたというか……緊張してたでしょ?」

「たしかに……そうだったかもしれません」

「いまはなんだか、いい感じ。こなれてきたっていうか」

笑いながら言われた言葉に、私はなんとも言えない気持ちで頷いた。

(私……こなれてきたのかな)

そう思った瞬間、今の自分の立ち位置を冷静に見つめ直したくなった。

いじめがなくなり、周囲の空気が和らぎ、仕事に集中できる環境が整ってきた。
そのなかで、私は確実に“変わった”。

自分の表情も、言葉も、立ち居振る舞いも――そして、心も。

その中心には、やっぱり――一ノ瀬専務の存在がある。

夕方、業務が落ち着いてきたころ、専務が自ら私の席に歩いてきた。

「さっきの会議資料、助かったよ。ありがとう」

声が、いつになく穏やかだった。

顔を見てはっきりわかった。
少し疲れているのだろう。目の下にうっすらと影が差し、ネクタイも少しだけ緩められていた。

「……お疲れさまです。ご無理なさらないでくださいね」

私の言葉に、専務は一瞬、目を細めた。

「……気を遣われるの、苦手なんだけどな」

「それなら、そう言ったことは忘れてください」

自然と返せた自分に驚いた。

専務も、思わず小さく笑ったように見えた――ほんの、ほんの一瞬。

(あ……今、笑ってくれた)

それは、初めて見る“本当に自然な笑顔”だった。

私の胸に、そっと春の風が吹き込んだようだった。

その日の帰り道。

地下鉄の車内で、私はぼんやりと手帳を眺めていた。

予定表の空白の隅っこに、小さく「16:30 会議資料手交」と書かれている。
ただそれだけのこと。日常の、ほんの一場面。

だけど、その記録の裏には、確かな温度が残っていた。

少し前の自分なら、こんな小さな言葉に一喜一憂していた。

「助かったよ」「ありがとう」「手間かけたな」

そんな言葉をもらうたび、意味以上に期待してしまっていた。

でも今は違う。

それが、ただの業務上の言葉だとわかっていても――それでもうれしいと思える余裕が、自分の中に育ってきていた。

(お互いに、ちょっとだけ“楽”になったんだ)

専務も、もしかしたら、私に対する警戒心を少しずつ解いてくれているのかもしれない。

それが、“気持ち”なのか“信頼”なのか、“ただの慣れ”なのかは、まだわからない。

でも、今のこの空気が、私は好きだった。

無理をしなくていい。
背伸びをしなくても、ちゃんと見てくれている人がいる。
その人のそばにいられるという事実が、静かに心を満たしてくれる。

電車が駅に滑り込む頃、私は手帳を閉じ、そっと鞄にしまった。

胸の奥にはまだ、あの一言の余韻が温かく残っていた。

「手間かけたな」

それは、今日という一日の中で――たったひとつだけ、本当にほしかった言葉だった。