午後のオフィスは、昼のざわめきを少しだけ引きずったまま、静かな定常音に満たされていた。
キーボードの打鍵音、コピー機の駆動音、時折聞こえる電話の着信音。すべてが仕事のリズムとして耳に馴染み始めていた。
この空気の中に、ようやく“私の居場所”がある気がしていた。
ほんの少し前までは、何をしても視線を集めていた。
私語をしないことすら「気取ってる」と言われ、些細な失敗が「やっぱり新人だから」と舌打ちの材料にされた。
でも今は違う。
給湯室で咄嗟に口にした一言――「婚約者、いますから」。
たったそれだけの嘘が、私のまわりにあった無数の“刺”を、不思議なほどなめらかに取り払ってしまった。
今、誰も私に色眼鏡を向けない。
それだけで、こんなにも仕事に集中できるなんて。
(あの頃は、目の前の仕事に向き合うことすら苦しかったのに……)
スケジュール帳を開き、午前中に預かった書類の整理に目を通す。
無意識のうちにメモを取るペンの動きが速くなる。
書類に触れる指先が柔らかく、自然だった。
小さな自信が、少しずつ育ってきている気がした。
午後2時半。一ノ瀬専務のデスクに提出する資料を確認する。
以前は、この時間が苦手だった。
手が震える。のどが渇く。脳裏には「失敗したらどうしよう」の文字が何度も浮かんだ。
でも今日は、落ち着いていた。
資料のクリップを整え、簡潔にまとめた補足メモを添える。過不足のない説明ができるよう、要点も箇条書きで用意した。
「失礼します」
執務室の扉をノックし、中へ入る。
一ノ瀬専務は、いつものように背筋を伸ばしてデスクに向かっていた。
淡いグレーのスーツ。きっちりと結ばれたネクタイ。整った指先で静かに書類をめくっていた。
私は資料をそっと差し出しながら、ふと――気づいてしまった。
(見てる)
ずっと、彼を“見ていた”ことに。
目の前で書類を受け取る手。瞬きの間隔。ペンの走る音。
彼の仕草、姿勢、呼吸のリズムまで、いつのまにか、私の中に深く染みついていた。
ただの上司。
冷たい態度。
近寄りがたい人――
そう思い込もうとしていたはずなのに。
気づけば、目で追っていた。
声を聞くと、鼓動が一拍遅れて跳ねる。
背中越しでも、彼が何を考えているのか、気になって仕方なかった。
「……確認しておきます」
低く通る声。受け取った資料をめくりながら、彼はいつも通りの淡々とした口調でそう言った。
でも、それだけで十分だった。
(……この人が、私の作った資料に目を通してくれる)
それが、うれしかった。
もはや“評価”とか“褒め言葉”を求めていたわけではない。
ただ、目の前にいる彼に、自分の仕事が届いていることが――うれしい。
一礼して執務室を出たあと、私は静かに胸に手を置いた。
鼓動が、静かに、でも確実に速まっていた。
(……やっぱり好き、なんだ)
はっきりと言葉にしなくても、わかった。
私は、この人をまだ諦めきれていないことを。
午後の陽射しが、窓際の会議室を薄く照らしていた。
誰もいない空間。ちょっとだけ開けておいた窓から、春の空気がふわりと入り込む。
資料の整理で使ったこの部屋は、私にとって、唯一“誰の視線にもさらされない場所”だった。
椅子に腰かけて、天井を見上げる。
(こんなはずじゃなかったのに)
本気になるつもりなんて、なかった。
秘書として、一歩引いた立場で、冷静に仕事をこなすだけ。
それ以上は踏み込まない。それが“プロ”の姿だと信じていた。
でも。
気づけば、その人の背中を目で追い、声に耳を傾け、優しさに心が揺れていた。
そして今、この静けさの中で、やっと素直に認めてしまった。
(私……ずっと、専務のことを見ていた)
彼の言葉に一喜一憂し、資料のひと言に震えていたのは、
ただの秘書としての緊張じゃなかった。
もっと、ずっと前から。
私は、彼という存在そのものに――惹かれていた。
夕方。外回りから戻ってきた営業部の男性社員が、ふと言った。
「高梨さんってさ、ほんと空気変わったよね。前より堂々としてるというか」
「……そうですか?」
笑って返しながら、心の中では別の答えを口にしていた。
(ううん、変わったのは“私”じゃない。私が、彼に気づいただけ)
いじめが終わり、周囲の視線が和らいで、ようやく見えてきたものがある。
それは、自分の中に芽生えていた――“好き”という感情。
私は、いま、確かにその人に惹かれている。
そして、それが“叶わない想い”であることも、痛いほどわかっている。
でも――それでも構わなかった。
好きになってしまったことそのものを、誰にも知られなくても。
この想いを胸に秘めたまま、そっと日々を過ごすだけでも。
私は、たしかにこの人を、好きになっていた。
その事実が、今日、はっきりと心に刻まれた。
キーボードの打鍵音、コピー機の駆動音、時折聞こえる電話の着信音。すべてが仕事のリズムとして耳に馴染み始めていた。
この空気の中に、ようやく“私の居場所”がある気がしていた。
ほんの少し前までは、何をしても視線を集めていた。
私語をしないことすら「気取ってる」と言われ、些細な失敗が「やっぱり新人だから」と舌打ちの材料にされた。
でも今は違う。
給湯室で咄嗟に口にした一言――「婚約者、いますから」。
たったそれだけの嘘が、私のまわりにあった無数の“刺”を、不思議なほどなめらかに取り払ってしまった。
今、誰も私に色眼鏡を向けない。
それだけで、こんなにも仕事に集中できるなんて。
(あの頃は、目の前の仕事に向き合うことすら苦しかったのに……)
スケジュール帳を開き、午前中に預かった書類の整理に目を通す。
無意識のうちにメモを取るペンの動きが速くなる。
書類に触れる指先が柔らかく、自然だった。
小さな自信が、少しずつ育ってきている気がした。
午後2時半。一ノ瀬専務のデスクに提出する資料を確認する。
以前は、この時間が苦手だった。
手が震える。のどが渇く。脳裏には「失敗したらどうしよう」の文字が何度も浮かんだ。
でも今日は、落ち着いていた。
資料のクリップを整え、簡潔にまとめた補足メモを添える。過不足のない説明ができるよう、要点も箇条書きで用意した。
「失礼します」
執務室の扉をノックし、中へ入る。
一ノ瀬専務は、いつものように背筋を伸ばしてデスクに向かっていた。
淡いグレーのスーツ。きっちりと結ばれたネクタイ。整った指先で静かに書類をめくっていた。
私は資料をそっと差し出しながら、ふと――気づいてしまった。
(見てる)
ずっと、彼を“見ていた”ことに。
目の前で書類を受け取る手。瞬きの間隔。ペンの走る音。
彼の仕草、姿勢、呼吸のリズムまで、いつのまにか、私の中に深く染みついていた。
ただの上司。
冷たい態度。
近寄りがたい人――
そう思い込もうとしていたはずなのに。
気づけば、目で追っていた。
声を聞くと、鼓動が一拍遅れて跳ねる。
背中越しでも、彼が何を考えているのか、気になって仕方なかった。
「……確認しておきます」
低く通る声。受け取った資料をめくりながら、彼はいつも通りの淡々とした口調でそう言った。
でも、それだけで十分だった。
(……この人が、私の作った資料に目を通してくれる)
それが、うれしかった。
もはや“評価”とか“褒め言葉”を求めていたわけではない。
ただ、目の前にいる彼に、自分の仕事が届いていることが――うれしい。
一礼して執務室を出たあと、私は静かに胸に手を置いた。
鼓動が、静かに、でも確実に速まっていた。
(……やっぱり好き、なんだ)
はっきりと言葉にしなくても、わかった。
私は、この人をまだ諦めきれていないことを。
午後の陽射しが、窓際の会議室を薄く照らしていた。
誰もいない空間。ちょっとだけ開けておいた窓から、春の空気がふわりと入り込む。
資料の整理で使ったこの部屋は、私にとって、唯一“誰の視線にもさらされない場所”だった。
椅子に腰かけて、天井を見上げる。
(こんなはずじゃなかったのに)
本気になるつもりなんて、なかった。
秘書として、一歩引いた立場で、冷静に仕事をこなすだけ。
それ以上は踏み込まない。それが“プロ”の姿だと信じていた。
でも。
気づけば、その人の背中を目で追い、声に耳を傾け、優しさに心が揺れていた。
そして今、この静けさの中で、やっと素直に認めてしまった。
(私……ずっと、専務のことを見ていた)
彼の言葉に一喜一憂し、資料のひと言に震えていたのは、
ただの秘書としての緊張じゃなかった。
もっと、ずっと前から。
私は、彼という存在そのものに――惹かれていた。
夕方。外回りから戻ってきた営業部の男性社員が、ふと言った。
「高梨さんってさ、ほんと空気変わったよね。前より堂々としてるというか」
「……そうですか?」
笑って返しながら、心の中では別の答えを口にしていた。
(ううん、変わったのは“私”じゃない。私が、彼に気づいただけ)
いじめが終わり、周囲の視線が和らいで、ようやく見えてきたものがある。
それは、自分の中に芽生えていた――“好き”という感情。
私は、いま、確かにその人に惹かれている。
そして、それが“叶わない想い”であることも、痛いほどわかっている。
でも――それでも構わなかった。
好きになってしまったことそのものを、誰にも知られなくても。
この想いを胸に秘めたまま、そっと日々を過ごすだけでも。
私は、たしかにこの人を、好きになっていた。
その事実が、今日、はっきりと心に刻まれた。



