その朝、オフィスに入った瞬間、妙な気配に気づいた。
視線が、ちらりとこちらをかすめてくる。
すぐに逸らされるけれど、それが“たまたま”ではないと、肌でわかる。
誰かが私の名前を呼んでいるわけではない。けれど、周囲の空気が、確実に何かを含んでいた。
(……また、何かあった?)
そう思いながらデスクに向かうと、向かいの席にいた川原さんが小さく笑いながら囁いてきた。
「……なんか、すごいことになってるよ」
「え?」
「昨日、給湯室で言ったんでしょ? 澪ちゃん、婚約してるって」
私は息を呑んだ。
(――あの一言が、もう?)
たった一言。たったそれだけの“その場しのぎ”の嘘だった。
給湯室での牽制をやり過ごすためだけに、思わずついてしまった、たったひとつの防衛線。
それが――もう、“噂”になっていた。
「えっと……うん、まあ……」
曖昧に笑うしかなかった。
「そっかそっか、やっぱりね〜。どことなく雰囲気変わってたし、なんとなくそんな気がしてたのよー」
その言葉に、さらに周囲の耳がピクッと動くのがわかった。
私の声も表情も、“言ってない”とは言っていなかった。
否定しない。それは、つまり“肯定”と同じだった。
(……もう、いいか)
私の中で、小さく何かが折れたような気がした。
昼休み。
いつもならひとりでコンビニまで歩く道に、今日は思いがけず同僚の白石さんが隣に立っていた。
「よかったら一緒に行こっか。あ、でも彼氏に悪いかな?」
「あ、いえ……大丈夫です。そんな、気にしないでください」
「じゃあ、決まりだね!」
からっとした笑顔がまぶしくて、私は少し目を細めた。
それからは、まるで水が引くように――あれほど強かった“牽制”が、次々と霧のように消えていった。
あれほど冷たかった佐伯さんも、朝の挨拶には小さく頷いて返すようになった。
コピー用紙の補充を押しつけられることもなくなり、メールの確認を頼まれたり、会議資料の仕分けを一緒にすることも増えた。
(え、こんなことで……?)
驚きとともに、私はある種の現実を知った。
――「婚約者がいる」
その一言が、女という立場を“安全圏”に押し上げるのだ。
私は“恋愛市場にいない女”として認識され、“男を狙わない安全な人”というラベルを貼られた。
誰とも恋仲にならない、無害な存在――その立ち位置が、私をようやく“同じ輪の中”へと戻した。
(皮肉だな……)
誰にも言っていない恋。
ひとりで心に抱えていた人。
その人のそばにいたくて頑張っていた私が、今、“誰かのもの”という嘘で守られている。
「専務の担当が澪ちゃんで、ほんとよかったよねー」
コピーを取りにきた営業部の女子社員が言った。
「だって、いつもフリーの女の子が担当すると大変なんだよ。専務、モテるから。昔、別の秘書が本気になっちゃって、めっちゃ気まずくなってたもん」
「でも、婚約者がいる人なら安心だしね。専務もやりやすいんじゃない?」
その言葉に、私は何も言わず微笑んだ。
(……そう思われてるんだ)
もう否定するタイミングはとっくに過ぎていた。
きっかけを作ったのは自分。
そして、それを否定しなかったのも自分。
それに、確かに――楽だった。
誰も私を見張らなくなった。
誰も専務とのやりとりにいちいち口を挟まなくなった。
仕事がしやすくなり、笑いかけてくれる人も増えた。
(……こんなに楽になるなら、最初から言ってればよかったのかな)
そんなふうに思ってしまう自分に、少し嫌悪も覚えた。
でも。
(もう、いいや……)
嘘は、嘘だ。
でもその嘘が、私の居場所を守ってくれた。
もし今、正直に「違います」と言えば――またあの視線に晒される。
またあの冷たい噂に巻き込まれる。
(なら、このままでいい)
そう思うしかなかった。
夕方。
ふと見たデスクの端に、小さな飴玉が置かれていた。
「あ、これ……白石さん?」
「うん。ちょっと喉疲れてるかなって思って。がんばってるの、見てるよ」
その一言に、胸が熱くなった。
――ずっと欲しかった言葉だった。
でも、それが“嘘”の上に乗ったものだとわかっていても、私はその飴をポケットにそっとしまった。
(ごめんなさい。でも、ありがとう)
私はそう心の中で呟いた。
そして、再び書類の山に向かった。
この仕事は、好きだ。
だから、続けたい。
だから――私はこの嘘と、しばらく一緒に生きる。
視線が、ちらりとこちらをかすめてくる。
すぐに逸らされるけれど、それが“たまたま”ではないと、肌でわかる。
誰かが私の名前を呼んでいるわけではない。けれど、周囲の空気が、確実に何かを含んでいた。
(……また、何かあった?)
そう思いながらデスクに向かうと、向かいの席にいた川原さんが小さく笑いながら囁いてきた。
「……なんか、すごいことになってるよ」
「え?」
「昨日、給湯室で言ったんでしょ? 澪ちゃん、婚約してるって」
私は息を呑んだ。
(――あの一言が、もう?)
たった一言。たったそれだけの“その場しのぎ”の嘘だった。
給湯室での牽制をやり過ごすためだけに、思わずついてしまった、たったひとつの防衛線。
それが――もう、“噂”になっていた。
「えっと……うん、まあ……」
曖昧に笑うしかなかった。
「そっかそっか、やっぱりね〜。どことなく雰囲気変わってたし、なんとなくそんな気がしてたのよー」
その言葉に、さらに周囲の耳がピクッと動くのがわかった。
私の声も表情も、“言ってない”とは言っていなかった。
否定しない。それは、つまり“肯定”と同じだった。
(……もう、いいか)
私の中で、小さく何かが折れたような気がした。
昼休み。
いつもならひとりでコンビニまで歩く道に、今日は思いがけず同僚の白石さんが隣に立っていた。
「よかったら一緒に行こっか。あ、でも彼氏に悪いかな?」
「あ、いえ……大丈夫です。そんな、気にしないでください」
「じゃあ、決まりだね!」
からっとした笑顔がまぶしくて、私は少し目を細めた。
それからは、まるで水が引くように――あれほど強かった“牽制”が、次々と霧のように消えていった。
あれほど冷たかった佐伯さんも、朝の挨拶には小さく頷いて返すようになった。
コピー用紙の補充を押しつけられることもなくなり、メールの確認を頼まれたり、会議資料の仕分けを一緒にすることも増えた。
(え、こんなことで……?)
驚きとともに、私はある種の現実を知った。
――「婚約者がいる」
その一言が、女という立場を“安全圏”に押し上げるのだ。
私は“恋愛市場にいない女”として認識され、“男を狙わない安全な人”というラベルを貼られた。
誰とも恋仲にならない、無害な存在――その立ち位置が、私をようやく“同じ輪の中”へと戻した。
(皮肉だな……)
誰にも言っていない恋。
ひとりで心に抱えていた人。
その人のそばにいたくて頑張っていた私が、今、“誰かのもの”という嘘で守られている。
「専務の担当が澪ちゃんで、ほんとよかったよねー」
コピーを取りにきた営業部の女子社員が言った。
「だって、いつもフリーの女の子が担当すると大変なんだよ。専務、モテるから。昔、別の秘書が本気になっちゃって、めっちゃ気まずくなってたもん」
「でも、婚約者がいる人なら安心だしね。専務もやりやすいんじゃない?」
その言葉に、私は何も言わず微笑んだ。
(……そう思われてるんだ)
もう否定するタイミングはとっくに過ぎていた。
きっかけを作ったのは自分。
そして、それを否定しなかったのも自分。
それに、確かに――楽だった。
誰も私を見張らなくなった。
誰も専務とのやりとりにいちいち口を挟まなくなった。
仕事がしやすくなり、笑いかけてくれる人も増えた。
(……こんなに楽になるなら、最初から言ってればよかったのかな)
そんなふうに思ってしまう自分に、少し嫌悪も覚えた。
でも。
(もう、いいや……)
嘘は、嘘だ。
でもその嘘が、私の居場所を守ってくれた。
もし今、正直に「違います」と言えば――またあの視線に晒される。
またあの冷たい噂に巻き込まれる。
(なら、このままでいい)
そう思うしかなかった。
夕方。
ふと見たデスクの端に、小さな飴玉が置かれていた。
「あ、これ……白石さん?」
「うん。ちょっと喉疲れてるかなって思って。がんばってるの、見てるよ」
その一言に、胸が熱くなった。
――ずっと欲しかった言葉だった。
でも、それが“嘘”の上に乗ったものだとわかっていても、私はその飴をポケットにそっとしまった。
(ごめんなさい。でも、ありがとう)
私はそう心の中で呟いた。
そして、再び書類の山に向かった。
この仕事は、好きだ。
だから、続けたい。
だから――私はこの嘘と、しばらく一緒に生きる。



