給湯室に差し込む昼の光は、やけに白くて冷たかった。
蛍光灯の光と入り混じって、カップの縁を照らし、静かに湯気を立たせていた。
朝から、まただった。
「最近、専務に呼ばれること多くない?」
「もしかして、気に入られてるんじゃない?」
「新人ってだけで得よね~、いいなあ」
声の主はいつもの二人。佐伯さんと今村さん。
名前を挙げずとも、もう言葉のトーンだけで誰かわかるようになってしまった自分が、少し情けない。
嫌味や牽制。
直接的ではないけれど、刃のように鋭くて、痛い。
私が書類を持って専務室を出るたび、話し声が小さくなる。
ランチの誘いは、最初から存在しない。休憩時間には誰も隣に座ってこない。
無視されるわけではない。けれど、存在を忘れられたような疎外感。
まるで空気のように扱われながらも、視線の端では確実に“監視”されている。
そんな日々が、もう何ヶ月も続いていた。
だけど――
(もう、いい)
今朝、そう思った。
私は“知ってしまった”。
専務には家族がいる。
あの少女――心春ちゃんを愛情深く育てている、“父親”の顔がある。
社内の誰もが知らない彼の一面を、私は偶然にも目にした。
そして、その瞬間から、彼の言動が、態度が、表情が、すべて違って見えるようになった。
冷たく感じた言葉も、突き放すような視線も、“距離を取っている理由”がわかれば、もう怖くなかった。
(この人は、誰にも踏み込ませない。誰かを守っている人)
そう思えば、あらゆる誤解や嫉妬が、馬鹿らしく思えた。
(なのに……)
それでも、他人の声は止まらない。
――なんで新人があんなポジションに
――ちょっと可愛がられてるって、勘違いしてない?
――どうせすぐ泣きついてるんでしょ?
“女”としての価値や立場で、評価されるなんて――
仕事を真面目にやってるだけなのに、そんな目で見られるなんて――
私は、ただまっすぐに働いていたいだけなのに。
「……もうほんと、わかんないよねー専務の好みって。前の子、すごい美人だったのに。やっぱ、そういうのじゃないのかも」
「ほら、無害そうなほうが好きなんじゃない? おとなしい感じで、従順で」
耳に届いたその瞬間、私の中の何かが“限界点”を超えた。
――無害。
――従順。
それが私の評価?
(なんで、そんなふうに決めつけるの?)
言葉が喉の奥までせりあがる。
でも、感情的になったら負けだ。泣いたら、また“新人のくせに”と笑われる。
反論しても、倍になって返ってくるだけ。
なのに。
私は止められなかった。
「……私、婚約者いますから」
ひょいと給湯室の入り口から顔を出し、言葉がぽろりと落ちた。
自分でも、驚いた。
滑らかすぎて、まるで前から用意していたみたいな嘘。
だけど、それは紛れもなく“今”この場を守るために、本能が選んだ言葉だった。
静寂が落ちた。
佐伯さんも、今村さんも、動きを止めていた。
湯気だけが立ち昇り続ける空間の中で、誰も言葉を発しない。空気が止まっているようだった。
私は、ただ静かに背筋を伸ばしていた。
鼓動が、少しだけ早くなっているのがわかる。
でも、それは恐怖ではなかった。
解放だった。
“もう、言わなれなくていいんだ”という、安堵。
「……へえ」
佐伯さんの口元が、少しだけ歪んだ。
「……そうなんだ。知らなかった」
声のトーンが、微妙に変わっていた。
張りつめた冷たさではなく、困惑とも戸惑いともつかない空気。
今村さんはというと、笑うわけでもなく、ただ「あ、そうなんだ……」と呟いただけだった。
その後、給湯室の空気は一気に変わった。
張りついていた緊張が、不自然なほどにほどけ、誰もが何事もなかったようにポットに手を伸ばし始める。
でも、私はそれ以上何も言わなかった。
彼がどんな人なのか、どこに住んでいるのか、何をしているのか――そんなことは一切語らず、ただ「婚約者がいる」という、その一言だけを残して、給湯室をあとにした。
オフィスへ戻る廊下の途中、ふと肩が軽くなっているのに気づいた。
あれほど息苦しかった職場が、ほんの少し、空気を変えていた。
カップに残った紅茶は、すっかり冷めていた。
でも、その苦みさえ、少しだけ甘く感じた。
(嘘だけど――でも、私はやっと、自分を守れた)
その一言が、すべてを変えてしまうことになるとは、まだこのときは知らなかった。
蛍光灯の光と入り混じって、カップの縁を照らし、静かに湯気を立たせていた。
朝から、まただった。
「最近、専務に呼ばれること多くない?」
「もしかして、気に入られてるんじゃない?」
「新人ってだけで得よね~、いいなあ」
声の主はいつもの二人。佐伯さんと今村さん。
名前を挙げずとも、もう言葉のトーンだけで誰かわかるようになってしまった自分が、少し情けない。
嫌味や牽制。
直接的ではないけれど、刃のように鋭くて、痛い。
私が書類を持って専務室を出るたび、話し声が小さくなる。
ランチの誘いは、最初から存在しない。休憩時間には誰も隣に座ってこない。
無視されるわけではない。けれど、存在を忘れられたような疎外感。
まるで空気のように扱われながらも、視線の端では確実に“監視”されている。
そんな日々が、もう何ヶ月も続いていた。
だけど――
(もう、いい)
今朝、そう思った。
私は“知ってしまった”。
専務には家族がいる。
あの少女――心春ちゃんを愛情深く育てている、“父親”の顔がある。
社内の誰もが知らない彼の一面を、私は偶然にも目にした。
そして、その瞬間から、彼の言動が、態度が、表情が、すべて違って見えるようになった。
冷たく感じた言葉も、突き放すような視線も、“距離を取っている理由”がわかれば、もう怖くなかった。
(この人は、誰にも踏み込ませない。誰かを守っている人)
そう思えば、あらゆる誤解や嫉妬が、馬鹿らしく思えた。
(なのに……)
それでも、他人の声は止まらない。
――なんで新人があんなポジションに
――ちょっと可愛がられてるって、勘違いしてない?
――どうせすぐ泣きついてるんでしょ?
“女”としての価値や立場で、評価されるなんて――
仕事を真面目にやってるだけなのに、そんな目で見られるなんて――
私は、ただまっすぐに働いていたいだけなのに。
「……もうほんと、わかんないよねー専務の好みって。前の子、すごい美人だったのに。やっぱ、そういうのじゃないのかも」
「ほら、無害そうなほうが好きなんじゃない? おとなしい感じで、従順で」
耳に届いたその瞬間、私の中の何かが“限界点”を超えた。
――無害。
――従順。
それが私の評価?
(なんで、そんなふうに決めつけるの?)
言葉が喉の奥までせりあがる。
でも、感情的になったら負けだ。泣いたら、また“新人のくせに”と笑われる。
反論しても、倍になって返ってくるだけ。
なのに。
私は止められなかった。
「……私、婚約者いますから」
ひょいと給湯室の入り口から顔を出し、言葉がぽろりと落ちた。
自分でも、驚いた。
滑らかすぎて、まるで前から用意していたみたいな嘘。
だけど、それは紛れもなく“今”この場を守るために、本能が選んだ言葉だった。
静寂が落ちた。
佐伯さんも、今村さんも、動きを止めていた。
湯気だけが立ち昇り続ける空間の中で、誰も言葉を発しない。空気が止まっているようだった。
私は、ただ静かに背筋を伸ばしていた。
鼓動が、少しだけ早くなっているのがわかる。
でも、それは恐怖ではなかった。
解放だった。
“もう、言わなれなくていいんだ”という、安堵。
「……へえ」
佐伯さんの口元が、少しだけ歪んだ。
「……そうなんだ。知らなかった」
声のトーンが、微妙に変わっていた。
張りつめた冷たさではなく、困惑とも戸惑いともつかない空気。
今村さんはというと、笑うわけでもなく、ただ「あ、そうなんだ……」と呟いただけだった。
その後、給湯室の空気は一気に変わった。
張りついていた緊張が、不自然なほどにほどけ、誰もが何事もなかったようにポットに手を伸ばし始める。
でも、私はそれ以上何も言わなかった。
彼がどんな人なのか、どこに住んでいるのか、何をしているのか――そんなことは一切語らず、ただ「婚約者がいる」という、その一言だけを残して、給湯室をあとにした。
オフィスへ戻る廊下の途中、ふと肩が軽くなっているのに気づいた。
あれほど息苦しかった職場が、ほんの少し、空気を変えていた。
カップに残った紅茶は、すっかり冷めていた。
でも、その苦みさえ、少しだけ甘く感じた。
(嘘だけど――でも、私はやっと、自分を守れた)
その一言が、すべてを変えてしまうことになるとは、まだこのときは知らなかった。



