冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

社内の空気は、いつも通りだった。

コピー機の稼働音。電話のベル。誰かのタイピング。給湯室から漂ってくるコーヒーの香り。
何も変わっていない――そう見えるけれど、私の中では、確かに何かが変わっていた。

週末に見た光景が、今も頭から離れない。

大学のテニスコート。あの少女、心春ちゃん。そして、彼女が自然に呼んだ「パパ」という言葉。
その横にいたのは、他でもない――専務、一ノ瀬颯真だった。

(どうして、誰にも言ってないんだろう)

デスクの上の書類に目を通しながら、考えは自然とそこへ戻ってしまう。

あれから、ネットで専務の名前を検索した。

何か出てくるかもしれないと思って。結婚報道とか、家族の写真とか、経歴に書かれている何か――でも、出てくるのは仕事に関するものばかりだった。
「若手実業家」「実力派経営者」「社長の右腕」「次期社長候補」――華々しい見出しが並ぶ中に、プライベートに関する情報はひとつもなかった。

(本当に、徹底してるんだ……)

まるで、家族という存在を最初から“なかったこと”にしているかのように。

だけど、あんなに自然に「パパ」と呼ばれていた。彼の手を握る少女の姿は、どう見ても“作られた”ものではなかった。
となれば、やっぱり――彼には“家庭”がある。

でも、それを“なぜ隠しているのか”という疑問が、私の中に残り続けていた。

(バレると、面倒だから――なのかな)

ふと浮かんだのは、職場での“視線”だった。

誰かが結婚しているとわかると、すぐに話題になる。特に女性社員が誰と結婚したか、どんな奥さんなのか、どこの出身なのか、写真はないのか――
そういう詮索が、ひそひそと飛び交うのを何度も見てきた。

(奥さんのこと、いろいろ言われたくないのかも……)

私が奥さんの立場だったら、そう思うかもしれない。

夫が、会社で女性社員に囲まれていて、日々業務の中で女性と接していて――そんな環境の中で「家庭のこと」をさらけ出すのは、たしかに不安になる。

(……だったら、あの冷たさにも理由があるのかも)

なるべく感情を出さず、女性社員に勘違いされないように。
「誰とも関係を持たない」というスタンスを貫いて、余計な誤解を生まないように――

そんな努力を、彼はずっと続けていたのかもしれない。

(仕事で一線を引いているのは、家庭を守るため……)

そう考えると、あの言動のひとつひとつが、妙に腑に落ちた。

指摘は冷静で、容赦がない。褒めることは稀。プライベートな話題には一切乗らない。飲み会にも、誘われても参加しない。

それは「他人を遠ざけている」のではなく、「家族を守るための線引き」だったのだ。

そう――理解した。

そして私は、気づかないうちに心のどこかで、こう思っていた。

(そのことを“知っている”のは、私だけかもしれない)

専務が家庭を持っていること。
それを、この会社で知っているのは、おそらく私だけ。

他の秘書も、他部署の社員たちも、誰一人知らない“秘密”を――私は偶然、見てしまった。

誰かに話すつもりはない。話してはいけない。
でもその“特別な事実”を知っていることで、私は少しだけ――彼に近づいた気がしていた。

(誰にも言わない。私だけの秘密にしておこう)

それが、勝手な思い込みだと分かっていても、心のどこかで“理解者”になった気がしていた。

彼の冷たさを、「仕方ない」と思える理由ができた。
彼の無表情も、そっけなさも、「そういう事情があるんだ」と思えば、少しだけ柔らかく見えた。

――誰にも言えないけれど、私は知っている。

――専務が、何を守ろうとしているのか。

(……だから、私が見守っていればいい)

誰かが誤解してもいい。誰かが遠巻きに話していてもいい。
私は、彼の“本当の事情”を知っているから。

そうやって、私は自分の中に“理解者ポジション”を築き上げていた。

気づけば、一ノ瀬専務の背中を、以前とは少し違う気持ちで見つめていた。

(……あの人も、きっと苦労してるんだろうな)

あれだけの役職と責任を背負いながら、家に帰れば“父親”としても子どもに向き合っている。会社では冷たく、厳しくある一方で、家庭では笑顔を見せる。

どれだけ神経を使っているんだろう。どれだけ“本当の自分”を押し殺しているんだろう。

そう思ったら、なんだか切なくなった。

彼がふと見せた、仕事中の疲れた表情。
コーヒーを口にする前に、目を閉じたあの瞬間。
いつもなら流していた細かい仕草が、今ではすべて、何かしらの“サイン”に思えた。

私だけが気づける、そんな特別な視線で――

(……なんだか、変だよね)

自分にそう苦笑する。

でも、止められなかった。

知らなければよかったかもしれない。でも、知ってしまったことで、彼の見え方が変わった。そして、自分の立ち位置も、知らず知らずのうちに少しずつ変わり始めていた。

私は、勝手に“理解者”になろうとしていた。

彼のために、自分が何かできるわけじゃない。
それでも、「知っている」という事実が、私の中に妙な“距離の近さ”を生んでいた。

誰にも言わない。
でも、忘れられない。

彼の“秘密”を知ってしまった私は、もう元の私には戻れなかった。