月曜の朝、会社のエントランスの自動ドアが音もなく開いた瞬間、冷たい空気が身体を包んだ。ビルの外気が染み込んだというより、私の内側から滲み出したような冷たさだった。
エレベーターの中で、他の社員が交わす軽い会話が耳に入ってこなかった。微笑むふりをしながら、心の中はどこか遠くに置いてきたまま、靄の中にいるようだった。
(いつも通りに振る舞う。何も知らないふりで、何も考えないように)
何度もそう言い聞かせていた。
けれど、記憶はあまりにも鮮明だった。
週末、大学のテニスコート。フェンスの向こうに立っていた少女――心春ちゃん。
彼女が一ノ瀬専務に駆け寄り、笑顔で「パパ!」と呼んだあの瞬間。
「パパ」という言葉が、頭の奥で何度も反響していた。彼がその小さな手を自然に握り返したあの柔らかい眼差し。あの笑顔。
私の知らない一面。職場で見せる冷徹な彼とはまるで違う“父親の顔”。
(あの子は、あの人の娘だったんだ)
何度思い返しても、信じたくない気持ちは消えなかった。
だって――
職場では、一度もそんな話は聞いたことがなかった。
彼が結婚しているという噂すら、耳にしたことがない。むしろ、女子社員たちは「専務は独身主義なんだって」「恋愛に興味なさそう」「近づいたら凍傷になる」なんて、冗談めかして話していた。
そう思わせるように、彼自身も無駄な感情を一切見せず、必要以上に誰かと関わることを避けていた。
でも、それは“演技”だったのかもしれない。
家庭を守るために。
誰にも勘違いされないように。
奥さんや娘さんに、余計な誤解や心配をさせないために。
私はデスクに着き、パソコンの電源を入れながら、心の奥が静かに沈んでいくのを感じていた。ファンが回る音さえ、遠くから聞こえるようにぼんやりとしていた。
デスクの斜め前――専務席に目をやると、一ノ瀬専務はいつも通りにそこにいた。
グレーのスーツ。白のシャツ。ネイビーのネクタイ。完璧に整えられた姿。無駄のない所作。背筋の伸びた美しい横顔。
冷たく、隙がなく、どこか壁を感じさせる姿――それは、職場での彼そのものだった。
だけど、私は知ってしまった。
あの人が、休日の公園で見せた、優しくてあたたかい顔。小さな女の子の笑い声に頬を緩め、手を差し出し、「パパ」と呼ばれていたあの姿。
(同じ人、なんだよね……)
信じられないような気持ちと、でも確かに同じ空気を纏っていることを、同時に感じていた。
隣の席の先輩秘書が、マグカップを片手に言った。
「ねえねえ、昨日って専務、また誰かと面談してたのかな?すごく早く帰ったって聞いたけど」
「えー、珍しいね。専務ってほとんど残業してるイメージしかない。家、遠いのかな?」
「いや、でも独身だから時間関係なさそうじゃない?」
――独身。
その言葉に、思わず手が止まった。
(みんな、まだ知らないんだ)
胸がじわりと苦くなる。
誰も気づいていない。私以外、彼に“家庭”があることを知らない。職場のどこにもそれを匂わせるものはない。写真も、指輪も、プライベートの話も一切ない。
それなのに、私は知ってしまった。
(どうして……隠してるんだろう)
結婚しているなら、堂々としていてもいいはず。家族がいると公言することは、むしろプライベートを守る盾になる。
なのに、それを隠している。
(……きっと、“奥さん”が嫌がるんだ)
社内の目にさらされること。詮索されること。
秘書や社員との接点がある中で、プライベートが漏れ聞こえるのは、奥さんにとって気持ちのいいことではないのかもしれない。
(だから彼は、最初から“冷たく”していたんだ)
その冷たさに、私は何度も心を折られた。資料のチェックが甘いと叱責され、失敗すれば無言で差し戻され、名前すら呼ばれない日もあった。
あの言葉のない圧力に、どれほど傷ついたか、どれほど泣いたか――
でも今は、少し違った感情があった。
(全部、家庭を守るための態度だったのかも)
自分にそう言い聞かせることで、なぜか心が静まっていく気がした。
優しさを見せないのは、誰かを傷つけないため。
距離を縮めないのは、誰かに勘違いさせないため。
誰の気持ちも揺らさないように、一定の距離を保つため。
(あの人なりに、すごく律して生きてるんだ)
そう思ったら、少しだけ納得がいった。
納得しなければ、苦しかった。
紅茶を入れようと給湯室に向かったとき、私はふと、自分の胸の中が静かになっていることに気づいた。
ぐちゃぐちゃに荒れていた気持ちが、どこか整理されつつあった。
「……好きになった人が、誰かのものだった。それだけのこと」
自分にそう言って、心の奥にその気持ちをそっとしまい込む。
その人は、家庭を大事にしている。
だからこそ、私たちに見せる顔は“冷たい専務”だった。
そのことに気づけた今、私は――ほんの少しだけ、彼のことを“理解できた”気がしていた。
(……もう、気持ちにはフタをしよう)
そっと、心に蓋をする。
それでも、その蓋の奥には、たしかに“誰かを想った”温度が、まだほんのり残っていた。
エレベーターの中で、他の社員が交わす軽い会話が耳に入ってこなかった。微笑むふりをしながら、心の中はどこか遠くに置いてきたまま、靄の中にいるようだった。
(いつも通りに振る舞う。何も知らないふりで、何も考えないように)
何度もそう言い聞かせていた。
けれど、記憶はあまりにも鮮明だった。
週末、大学のテニスコート。フェンスの向こうに立っていた少女――心春ちゃん。
彼女が一ノ瀬専務に駆け寄り、笑顔で「パパ!」と呼んだあの瞬間。
「パパ」という言葉が、頭の奥で何度も反響していた。彼がその小さな手を自然に握り返したあの柔らかい眼差し。あの笑顔。
私の知らない一面。職場で見せる冷徹な彼とはまるで違う“父親の顔”。
(あの子は、あの人の娘だったんだ)
何度思い返しても、信じたくない気持ちは消えなかった。
だって――
職場では、一度もそんな話は聞いたことがなかった。
彼が結婚しているという噂すら、耳にしたことがない。むしろ、女子社員たちは「専務は独身主義なんだって」「恋愛に興味なさそう」「近づいたら凍傷になる」なんて、冗談めかして話していた。
そう思わせるように、彼自身も無駄な感情を一切見せず、必要以上に誰かと関わることを避けていた。
でも、それは“演技”だったのかもしれない。
家庭を守るために。
誰にも勘違いされないように。
奥さんや娘さんに、余計な誤解や心配をさせないために。
私はデスクに着き、パソコンの電源を入れながら、心の奥が静かに沈んでいくのを感じていた。ファンが回る音さえ、遠くから聞こえるようにぼんやりとしていた。
デスクの斜め前――専務席に目をやると、一ノ瀬専務はいつも通りにそこにいた。
グレーのスーツ。白のシャツ。ネイビーのネクタイ。完璧に整えられた姿。無駄のない所作。背筋の伸びた美しい横顔。
冷たく、隙がなく、どこか壁を感じさせる姿――それは、職場での彼そのものだった。
だけど、私は知ってしまった。
あの人が、休日の公園で見せた、優しくてあたたかい顔。小さな女の子の笑い声に頬を緩め、手を差し出し、「パパ」と呼ばれていたあの姿。
(同じ人、なんだよね……)
信じられないような気持ちと、でも確かに同じ空気を纏っていることを、同時に感じていた。
隣の席の先輩秘書が、マグカップを片手に言った。
「ねえねえ、昨日って専務、また誰かと面談してたのかな?すごく早く帰ったって聞いたけど」
「えー、珍しいね。専務ってほとんど残業してるイメージしかない。家、遠いのかな?」
「いや、でも独身だから時間関係なさそうじゃない?」
――独身。
その言葉に、思わず手が止まった。
(みんな、まだ知らないんだ)
胸がじわりと苦くなる。
誰も気づいていない。私以外、彼に“家庭”があることを知らない。職場のどこにもそれを匂わせるものはない。写真も、指輪も、プライベートの話も一切ない。
それなのに、私は知ってしまった。
(どうして……隠してるんだろう)
結婚しているなら、堂々としていてもいいはず。家族がいると公言することは、むしろプライベートを守る盾になる。
なのに、それを隠している。
(……きっと、“奥さん”が嫌がるんだ)
社内の目にさらされること。詮索されること。
秘書や社員との接点がある中で、プライベートが漏れ聞こえるのは、奥さんにとって気持ちのいいことではないのかもしれない。
(だから彼は、最初から“冷たく”していたんだ)
その冷たさに、私は何度も心を折られた。資料のチェックが甘いと叱責され、失敗すれば無言で差し戻され、名前すら呼ばれない日もあった。
あの言葉のない圧力に、どれほど傷ついたか、どれほど泣いたか――
でも今は、少し違った感情があった。
(全部、家庭を守るための態度だったのかも)
自分にそう言い聞かせることで、なぜか心が静まっていく気がした。
優しさを見せないのは、誰かを傷つけないため。
距離を縮めないのは、誰かに勘違いさせないため。
誰の気持ちも揺らさないように、一定の距離を保つため。
(あの人なりに、すごく律して生きてるんだ)
そう思ったら、少しだけ納得がいった。
納得しなければ、苦しかった。
紅茶を入れようと給湯室に向かったとき、私はふと、自分の胸の中が静かになっていることに気づいた。
ぐちゃぐちゃに荒れていた気持ちが、どこか整理されつつあった。
「……好きになった人が、誰かのものだった。それだけのこと」
自分にそう言って、心の奥にその気持ちをそっとしまい込む。
その人は、家庭を大事にしている。
だからこそ、私たちに見せる顔は“冷たい専務”だった。
そのことに気づけた今、私は――ほんの少しだけ、彼のことを“理解できた”気がしていた。
(……もう、気持ちにはフタをしよう)
そっと、心に蓋をする。
それでも、その蓋の奥には、たしかに“誰かを想った”温度が、まだほんのり残っていた。



