冷徹専務は、私の“嘘”に甘くなる

ボールが空を切り、鮮やかな弧を描いてネットを越えた。
パーンという音とともに、コートの中に響く歓声。

「ナイスショットー!」

もう何度聞いただろう、その声援。
金網フェンスの向こうから、透き通るような声が届く。

あの頃の私は、大学のテニス部に所属していた。
春から秋へ、そして冬へ。汗を流しながら、白いボールを必死で追いかけていた。
真剣に、でもどこか夢中になれて、日常のすべてがそこにあった。
そして――その練習の合間、いつもフェンス越しから声をかけてくる小さな存在がいた。

「がんばれー!おねえちゃん、すごーい!」

その女の子は、コートの裏の保育園に通っているようだった。
コート横のベンチにちょこんと座って、じっとこちらを見ていた。
毎日のように現れるその子は、私にとって小さな“癒し”だった。

初めて声をかけられたのは、たしか二年の春。
新歓期のドタバタがひと段落した午後、私はサービス練習をしていた。
汗をぬぐおうと手を止めたその時、「がんばれー!」と声がして、驚いて振り向いた。

そこには、小さな女の子が立っていた。
ふわふわの髪を二つ結びにして、フェンス越しに両手を振っている。
私は思わず笑って手を振り返した。

「ありがとう。君も応援上手だね」

その日から、私たちは顔を合わせるたびに挨拶を交わすようになった。
練習の合間に、「おねえちゃん、すきなのりものなに?」「テニスって、たのしい?」
そんな些細なやりとりが、私の日常にほんの少しの彩りを添えてくれた。

友達にもからかわれた。

「またアイドル来てるよ。あの子、あんたのファンなんじゃないの?」 「保育園のアイドルか~。名前聞いた?」

でも、名前は聞かなかった。
向こうも名乗らないし、私もなんとなく聞きそびれていた。
ただ、不思議とそれでよかったのかもしれない。
名前のないままの関係は、どこか儚くて、でも温かかった。

その子がフェンスの向こうにいるだけで、心が軽くなる日があった。
練習でうまくいかずに落ち込んでいたときも。
先輩に怒られて泣きそうになった日も。

「がんばれー!」「おねえちゃん、すごーい!」

その無垢な声に、何度助けられたかわからない。
私は、密かに彼女のことを“フェンス越しの天使”と呼んでいた。

けれど、時は流れた。
三年の終わりには就活が始まり、四年になるとゼミや論文、そして卒業準備。
自然とテニスコートに行く回数も減っていった。

最後の大会が終わった日、私は少しだけ早くコートに来て、フェンス越しを見渡した。
でも、そこにあの子の姿はなかった。

(もしかして、もう卒園したのかな……)

季節は春。桜の花がゆるやかに風に舞っていた。
きっと彼女も、新しい場所でスタートを切っているのだろう。

手を振る相手も、応援する誰かも、きっと見つけて。
私も、新しい道へ歩き出さなくちゃいけない。

名前も知らないまま、そっと終わった小さな友情。
でも、今でも心の奥に残っている。あの子の笑顔と、あの声。

「がんばれー!」

私は今も、ふとした瞬間にその声を思い出す。
これから社会人になる私を、もう一度あの声で励ましてくれるような気がして。

何気ない日々の中で交わされた、金網越しの思い出。
たぶん私は、あの子に――救われていたのだ。

そしてまだ知らない。
その“フェンス越しの天使”と、再び巡り会う日が来ることを。