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蒼也のマンションに帰ってきた翠は夕飯を作って夫の帰りを待っていた。
――何て言って出迎えようか、どう説明しようか。
誤解したことをちゃんと謝らなくちゃ。
何度も頭の中でシミュレーションを繰り返してみても、何が正解なのかは分からない。
だけど、伝えたい気持ちは一つだけ。
なのにそれを伝える言葉が見つからない。
八月終わりの夕暮れはいつの間にか秋の光に変わってリビングを淡く照らしている。
玄関ドアのノブがカチャリと音を立てた瞬間、翠は駆け寄った。
「お帰りなさい」
「おう、ただいま」
笑顔の蒼也が翠の手を取って引き寄せる。
バランスを崩して倒れかかる翠を抱きとめ、蒼也の腕が背中に回る。
スーツの生地越しにも、彼の鼓動が伝わってくる。
こんなに近くて、こんなに温かい。
そばにいるだけで伝わる。
――だから、私……、あなたが……。
準備した言葉がすべて白紙にもどって、翠は素直な気持ちをそのまま口にした。
「蒼也さん、ごめんなさい」
「なんだ、どうした?」
「勝手に勘違いして、疑っちゃって……ごめんなさい。私、蒼也さんがそんな人じゃないって、分かってたのに……」
言葉が詰まって視界がにじんだその瞬間、蒼也の大きな手が翠の頬を包み込む。
「そんなに俺のこと、想ってくれてたの?」
「え……?」
「不安にさせてすまない。俺の愛情表現が足りなかったからだろ」
あれ?
そういうこと……だっけ?
「翠、俺は君を離さない。どんな噂も、どんな誤解も、俺たちの間には関係ないよ。俺は翠しか見えない。翠も俺だけを見てよ。俺は翠を信じてるから」
蒼也の言葉が、爽快な夏の風のように翠の心を解きほぐしていく。
リビングの明かりが蒼也の緑がかった茶色の瞳を柔らかく照らし、唇がゆっくり近づいてくる。
柔らかく、温かく、まるで心まで溶かすような甘いキスに翠はすべてを委ねた。
「翠は俺の全てだよ。もう誤解なんかさせない」
繰り返される口づけに胸が熱く締めつけられ、思わず目をそらす。
「……ずるいです、こんなの」
不器用に口をとがらせる翠の顔をのぞき込んで蒼也がくすっと笑う。
「まだ足りない?」
もう一度注ぎ込まれる深く熱いキスが翠からすべての不安を奪い去る。
「これで信じた?」と、蒼也がコツンと額をくっつけてささやく。
どこまでも広い青空へと舞い上がるように心が軽くなる。
迷いなんてない。
「信じます。ずっと」
二十年間想い続けた少年が今ここにいることに、涙がにじむ。
「泣くなよ」と、蒼也が翠の頬を指先でぬぐう。「こんな俺、嫌い?」
「好きですよ」と、翠はスーツの胸に顔を押しつけた。「好き。愛してる。ずっと好きだったの」
「俺もだよ、翠」
――偽装だった私たちが、こんな未来を掴めるなんて。
どんな嵐が来ても、この人がいれば大丈夫。
翠は蒼也のスーツを涙で濡らしながら、愛する夫の背中を抱きしめていた。



