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レイナと別れた翠は、マキミヤのライブで会場が盛り上がっている間、窓際で一人夜景を眺めていた。
腹の底から揺さぶられるような大音響と声援に加え、映像の光がチラチラとガラスに映り込み、目眩がしそうだった。
「大丈夫ですか?」
声をかけられ振り向くと、そこには見覚えのある細身の男が立っていた。
「あ、ええ、平気です。ご心配なく」
「あまり良さそうじゃないですね。水でも持ってきましょうか」
「いえ、自分でできますから」
話をしているうちに、その男がさっき蒼也と握手を交わしていた投資家であることに気づいた。
蒼也は今どこにいるのだろうか。
会場を見回す翠に男が間合いを詰めてきた。
「株式配信をしている須垣陸と申します」
「ええ、存じてます」
どうやら蒼也と一緒にいたことを覚えていないらしい。
「それは光栄」と、ピアニストのような指をそろえて手を差し出す。「あなたは?」
翠は胸の前で両手を振った。
「私はただ知り合いに呼ばれただけです」
「せっかくだから、静かなところで話しませんか」
「あの、すみません。私、夫と来ているので」
「そんな嘘でごまかせると思う?」と、左手をつかまれてしまう。「指輪もしてないのに」
――あっ。
偽装結婚の式を挙げたときに、形式的に指輪の交換はしていたのだが、最初のうちはあくまでも内密にしておくつもりだったせいで、指輪をする習慣ができていなかったのだ。
「見て」と、須垣が窓に顔を向ける。「とてもきれいだ」
「ええ、素敵な夜景ですね」
「違いますよ」と、窓の中で須垣が翠を見つめている。「窓に映るあなたですよ」
あまりにも気障な台詞と分かっているのに、なぜか鼓動が激しさを増し、体が熱くなる。
言われ慣れていないせいで、免疫ができていないからだ。
そのくらい自分でも分かっているのに、火照りを鎮めることができない。
そんな翠の隙につけこむように須垣が手を引き寄せる。
キスの手前で、危うくうつむく。
「は、離してください」
手を振りほどこうとしても、反対の手を腰に回されてしまう。
紳士的な振る舞いに油断していたが、急に口調が変わる。
「抵抗するふりもスパイスのつもりなんだろ。男の誘い方が上手だな」
「違います」
――誰か助けて。
叫び声をあげたところで、ライブの音声にかき消されてしまう。
男の手は遠慮なく背中を這い回る。
片手は握りあい、腰を抱き寄せた姿は、他人から見ればダンスを踊る恋人同士にしか見えないだろう。
翠はただ男のなすがままに罠に落ちていた。



