ベンチャーCEOの想い溢れる初恋婚 溺れるほどの一途なキスを君に

 祖父の幸之助は九十歳だ。

 二十年前に初めてお目にかかったときは経営の最前線にいたが、その後まもなく息子、つまり蒼也の父にあらゆる権限を譲って引退し、悠々自適の隠居生活を送っていた。

 五年前の手術で自力での歩行が難しくなり、車椅子に頼る生活になっていたものの、日課として自宅の庭に出たりして、老け込まないようにしていたのだった。

 それでもいつかそういう時は来るものなのだ。

 翠は変えようのない運命の重さに胸が締めつけられ、言葉が出なかった。

 隣のシートに埋もれるながら蒼也が額に手を当てて首を振っている。

「人は歳を取るし、いつかその時が来るのは仕方がない。それはその通りなんだが、なぜ、今なんだよ」

「蒼也さん」

「もっと……生きていてほしいし、もっといろんなことをしてほしいし、俺もいろんなことをしてあげたかったのに。なんでなんだよ……」

 ぎゅっとつむった目から涙がこぼれ落ちる。

 蒼也は自分でハンカチを取り出し、涙を拭いた。

「いや、みっともないところを見せてしまった。すまない」

「いえ、そんなことは」

「厳しい祖父だったが、いざ、こうして重い現実を突きつけられるとなんともやりきれなくてね。人の定めとはいえ、なぜ、どうしてと、理不尽さに打ちのめされてしまって」

 嘆く蒼也に何かしてやりたいとは思うものの、翠は自分の膝の上で手をぎゅっと握っているしかなかった。

 大型セダンとはいえ、並んで座る二人の間にそれほどのスペースはないのに距離が遠い。

「創薬ベンチャーとしてうちの会社も癌治療の新薬を開発しているんだが、必ずしもうまくいくことばかりではない。そんなのはこの業界では当たり前のことなのに、もっといい薬があれば、もっと手軽で確実な検査薬があれば……と、今さら何を言っても手遅れなのが悔しくてさ」

「うちの父も、母が亡くなった時に無力だって泣いていました」

 翠はようやく一言つぶやけた。

 父は国立大学で薬学を研究している学者だが、若くして亡くなった翠の母のことを今でも忘れずにいて、毎日仏壇の前で何かを語りかけるように手を合わせるのが日課だ。

 翠は、蒼也の横顔に向かって語りかけた。

「でも、それでも前を向いて一つ一つ成功と失敗を重ねて成果を上げていくしかないんだって言っていました」

「そうなんだよな。今までに生み出された薬だって、何百もの失敗があったから正解が見つかったんだ。前を向いて新しい薬を生み出していかなくちゃならないんだよな」

 自分自身に言い聞かせるようにそう言うと、蒼也はしばらくの間黙り込んでいた。

 車は都心部に入り、高速道路を下りた。