平城京の導き ~古都の物語~

「我々藤原氏は、長くこの国で繁栄させていかねばならぬ。お前も一族の者として、心して努めるのだぞ」
 不比等は少し低めの声で話した。その声には、父としての想いと、朝廷を支える者としての覚悟が滲んでいた。
 安宿媛も彼のこれまでの苦労を沢山聞いて育ってきた。その為、彼のこの言葉の重みをひしひしと感じ取れる。
「はい、私はお父さまとお母さまの娘であることを、とても誇りに思っています。必ずや藤原氏のお役に立てるよう、これからも精進してまいります」
 安宿媛はそう言って、母・三千代に目を向けた。母はそんな娘を優しく見つめ、そっと彼女の頭を撫でてくれる。
「そうだ、お前はそれで良い。決して道を見誤ることのないように」
彼女は時代の権力に守られた暮らしの中で、生きてきた。だがその繁栄の陰に、どれほどの多くの人たちの犠牲と苦しみがあったかを、心の奥でうすうすと感じている。
「お父さま、私は隣の大陸に実在したという女帝・武則天(ぶそくてん)を存じております。彼女は女性の地位を高め、優秀な人材を登用し、民の安寧にも尽くしたそうですね」
「まあ……そんなことまで知っていたの。いつの間に、あなたはそんな勉強を?」
娘の言葉に三千代は、酷く驚きの声を発し、不比等は思わず目を細めてくる。
「ああ、お前の言うとおりだ。彼女は希代の女帝であった。だが相手が、男であれ女であれ、権力を握るということは並大抵な事ではない。もしお前が男子に生まれていたなら、あるいは違う道もあったかもしれぬな」
「そうかもしれません。でも、私は女帝や尼僧になりたいのではなく、神の御心に沿って生きたいのです」
「もう、安宿媛はいつもそんなことばかり言って……」
 三千代は思わず苦笑した。だが不比等はその言葉を聞いて、深くうなずいた。
「まぁ、よいではないか。朝廷に仕える者には情けがなく、民は重い税に苦しんでいる。せめてこの子だけでも、清らかな心を忘れぬようにして育ってくれれば、それでよい」
 権力の裏では、貴族たちが地位を争い、農民は明日の食べ物にも困っている。それでも平城京は、外から見れば華やかだった。
 三人はしばらく黙ったまま、その様子を思い浮かべていた。
 やがて、あちらこちらから人々が集まり出した。即位の礼を見届けようと、貴族も役人も続々と平城宮に向かっているようである。
「お前たちは式が始まるまでどうするつもりだ?」
「私は後宮に少し寄ります。その間、安宿媛には外で待たせておきます」
「そうか。では私は役所に顔を出してくる。二人とも、気をつけるのだぞ」
「はい、お父さま。私も母さまについて、式の時を待ちます」
「あと、式が終われば、朱雀門の外にでもいてくれ。そこで帰りは落ち合う」
「はい、ではそのように致します」
 安宿媛はそう言って父と別れ、母と並んで歩き出した。

 しばらくしして、ふと安宿媛は肩にかけた領巾に目をやった。それは子どものころに贈られた天平模様(てんぴょうもよう)の布を、急きょ縫い合わせたものだった。やや短めではあるが、宝相華文が織り込まれており、今日の衣にも合っている。
(こうして身につけることができて良かったわ)
 一度は箱にしまったが、他に合う布が見つからず、やはりどうもこの布だけが気になって仕方なかったのだ。だからこそ、今日という日に選んでみることにした。
(この日を忘れないようにしよう。氷高皇女が即位なさる、その瞬間をこの目に焼きつけて)。