平城京の導き ~古都の物語~

「……君って、前から、こんなことする子だったっけ?」
「わ、私だって、普通ならこんな恥ずかしいことしないわよ。でも、こうでもしないと、あなたが離れていきそうで、不安だったの」
 彼女にそんなふうに言われてしまっては、すぐには何も言い返せず、首皇子は思わず頭を抱えた。
「俺はこれ以上、君を危険な目に遭わせたくないんだよ」
「そのことはお父さまから聞いたわ。でも、そんなことを言っていたら、この先、妃の一人も娶れないわよ。それでも、いいの?」
「そ、それは……君みたいに、危ない目に遭わなくて済む人を見つけるか、それが無理なら、俺じゃない別の誰かが、天皇になればいい」
「まあ、また首皇子の優柔不断さが始まったわね。あなた、そこだけは、昔と変わらないんだから」
「な、人が気にしてることを……それに、俺だって、昔よりはだいぶ変わったよ」
「あら、そうかしら?」
 安宿媛は少し意地悪そうに、そう言い返した。こうやって部屋に閉じこもりがちなところを見ると、彼女にはどうにも説得力に欠けるように思えた。
「とにかく、君は俺と一緒にいるべきじゃないんだよ!」
 皇子にそこまで言われた安宿媛は、なかなか次の言葉が浮かばず、目に涙を滲ませた。そこまでして、自分を拒みたいのだろうか。
「首皇子は、本当に勝手よ」
 その言葉を口にした瞬間、ついに我慢ができなくなり、安宿媛は勢いよく彼を突き飛ばしてしまった。
 不意を突かれた首皇子は、その場に踏み止まれず、地面に尻餅をついた。土や草は濡れていなかったが、冬の冷えがじかに伝わってくる。
「安宿媛、急に何をするんだよ!」
 安宿媛は涙目になりながら、首皇子の目を真っ直ぐ見つめて叫んだ。
「首皇子の臆病者!そんなに私が大事って言うんなら、あなたが私のことを必死で守ってよ!」
 次の瞬間、あたりは静まり返り、しばらく二人のあいだに沈黙が訪れた。
「え、俺が、君を守る……」
 首皇子は、思ってもみなかったことを言われたせいか、急に黙り込み、何やら考えごとを始めた。
(ど、どうして首皇子が、ここで黙り込むのよ)
 安宿媛は彼の意外な行動に、呆然としてしまう。これが彼女にとって最後の訴えだった。ここで拒まれてしまえば、もうどうすることもできない。
「そうか、その手があったか」
 首皇子は、自分の中で何かを得たように立ち上がり、ゆっくりと彼女の目の前まで歩み寄った。
「え、首皇子?」
「よし。それなら、君が危険にさらされないよう、俺が全力で守る」
 安宿媛は、思ってもみなかった彼の言葉に、涙をこぼしながら言った。
「皇子、本当よね。今言ったことは、嘘じゃないのよね」
「あぁ、本当だよ。それなら、これからも君と一緒にいられるし、悪い話じゃない……」
 彼が言い終えるより早く、安宿媛は再び彼に飛びついた。
「ずっと、ずっとだからね。もう私の傍から離れていかないで」
 その言葉を受け止めるように、首皇子はそっと彼女の背中に手を回し、優しく言った。
「あぁ、約束する。俺が必ず君を守るよ」
 そのまま二人は、しばらく抱き合っていた。互いのぬくもりをしっかりと確かめ合うように、何の言葉も、そこにはなかった。
 やがて、互いをゆっくりと離れる。すると、その場には、かすかな名残だけが漂っていた。
「じゃあ、せっかく君がここに来たことだし、東院の中にでも案内するよ」
「え、そんなことしていいの?」
「あぁ、もうここまで来てるんだ。今さら大丈夫だろうよ」
 首皇子の言葉を聞いて、安宿媛も確かにそうだと思った。それに部屋の中では、おそらく不比等たちも二人を待っているはずだ。
「うん、分かったわ」
 安宿媛は、笑顔でそう答えた。
 すると首皇子は、そんな彼女にそっと手を差し出した。
 安宿媛は少しはにかんだ表情で、その手を握り返す。その瞬間、彼女の不安は瞬く間に消えていく。
 それから二人は手をつなぎ、並んで建物の中へと入っていった。東院内のあちこちを眺めながら、互いに視線を交わし、他愛のない言葉を交わして、しばし穏やかな時を過ごした。
 そうして安宿媛は、これまで知ることのなかった、彼の日常に初めて触れることができたのだ。
 その後、藤原不比等らに、二人はこれまでの経緯を簡単に説明した。彼らは黙って話を聞いたのち、安堵したように息を漏らす。
 安宿媛としては、それでひとまず満足していたが、首皇子のほうは、まだ何か考えている様子にも見えた。それでも彼女は、今は深く気にしないことにした。