平城京の導き ~古都の物語~

「我々は天武朝の血筋です。首皇子も立太子となるからには、それなりの自覚を持ってもらわねばなりません。そして、氷高皇女の次に即位するのも彼だ。それこそ、あなたの思惑どおりというわけだ」
 長屋王は静かにそう言った。声音は穏やかだが、どこか相手を探るような雰囲気を漂わせている。
「私は天武・持統両天皇のご意思を引き継いだまでのことです。文武天皇の御子である首皇子が皇位を継ぐのは、当然の理でしょう」
 不比等は動じることもなく、あくまで冷静に答えた。だがその場には、見えない緊張の糸が張りつめている。
 長屋王の目には、皇族としての誇りと、藤原氏への警戒がうっすらと感じられる。
「ふん、まあよいでしょう。今はそういうことにしておきますよ。私は何も、あなたと争いたいわけではありませんのでね」
 長屋王は意味深な笑みを浮かべると、言葉をそこで切ってしまう。彼のその瞳の奥には、誰にも悟らせない強い意志が宿っているようだ。
 不比等もそれを感じ取っていたが、あえて踏み込もうとはしなかった。これが今の二人の距離であり、かろうじて保たれた均衡でもあった。
「では、私は大極殿に少し用がございますので、これで失礼いたします」
 長屋王は軽く頭を下げ、衣の裾を翻して去っていった。その背を見送りながら、不比等は息をつく。
(氷高皇女は、元明天皇の御意志を確かに継がれる方なので、きっと大丈夫だろう。だが、長屋王はとても自尊心が高い。決して油断してはならないようだ)
 藤原氏と皇族との関係は、いつも微妙なところで保たれてきた。少しの行き違いや感情のもつれがあれば、それだけで国のあり方が大きく揺れ動くこともある。権力のある立場とは、決して平坦なものではない。
 そのとき、背後から柔らかな声がかかった。
「お父さま、こちらにいらしたのですね」
 彼が振り向くと、妻の三千代と娘の安宿媛が立っていた。二人は礼服に身を包み、何とも気品の良さを漂わせている。
「まだ出かけるには少し早いと思ったのだけど、安宿媛が『遅れてはなりません』と、せき立てるものですから……」
 三千代が苦笑を浮かべる。邸宅で娘に急かされた光景が、不比等には容易に想像できた。
「まあ、お母さま。今日は氷高皇女のご即位の日なのよ。遅れたりしたら大変だわ」
 安宿媛は新調した裳を軽く引きずり、団扇を口元に当てて微笑んだ。その立ち居振る舞いに、貴族の娘らしさがにじんでいる。
「あなたのことだから、また部屋で書写でもしているかと思っていたのに。こんな日に限って行動が早くて、母さまは驚いておりますよ」
「私、この日を本当に楽しみにしていました。それにお母さまも、準備を整えるようにおっしゃっていたでしょう?」
「まあまあ、今日は祝いの日だからな。少し浮き立つのも仕方あるまい」
 不比等はそう言って、彼女らの会話を止めさせる。だが妻と娘のおかげで、先ほどまでの長屋王との緊迫した空気は、一気に消え失せてしまった。
 そして少しの間、三人は黙ったまま大極殿を見上げた。平城京の中央に建つその殿は、唐の都を手本にして造られたと聞くが、今はこの国の中心として、そこに存在している。
 するとどこからか(しょう)篳篥(ひちりき)、さらに龍笛(りゅうてき)の音がかすかに響き始めていた。どうやら式の準備が始まっているのだ。
「まぁ、雅(ががく)が三管揃って鳴っているのね」
 これらはいずれも、雅楽に欠かせぬ吹き物である。
笙は天、篳篥は地、龍笛は空――三管が揃うことで、天地の調和が整えられるとされていた。ゆるやかに流れるその音は、まるで天地を結ぶ祈りのように清らかだった。
 そんな中、安宿媛は再び大極殿を見上げ、父に語りかけた。
「お父さま、朱雀門もとても立派だけど、この大極殿も本当に大きいわ。この国でもこんな立派な正殿が作られるようになったのね」