首皇子が安宿媛の自宅に、定期的に訪れるようになってから、二ヶ月が過ぎていた。その間に年も改まり、二人は十五歳を迎えていた。
周囲の人々の心配をよそに、二人の関係は至って良好である。もともと住まいもほど近く、これまで顔を合わせてこなかったことのほうが、かえって不思議に思えるくらいだ。
今日も安宿媛は、自分の部屋で彼の訪れを待っていた。
数年前から庭に植えられていた梅の木が、今年になってようやく花をつけ、家の使用人たちも、なんと縁起が良いことかと、心もまた、しばし弾んでいた。
また、首皇子が足繁く通うようになってからというもの、もてなしとして、彼の好む飲み物や菓子が、いつも整えられるようになっている。
そして、男性の訪れでもあるため、彼女の顔がそっと隠れるよう、団扇も常に、安宿媛のそばに置かれていた。
安宿媛にとってこの二ヶ月は、あまりに満ち足りた日々で、自然と笑みがこぼれることも増えていた。
「でもこの二ヶ月間で、だいぶ首皇子の行動も分かってきたわ。まさか彼も、私が渡した布を今も身につけてくれていたなんて......」
そのことを思うだけでも、何とも言えない嬉しさが、胸の奥からこみ上げてくる。
「安宿媛、首皇子が来られました。ここにお通ししてもよろしいですか?」
彼女の部屋の外から、使用人の女性が声をかけてきた。どうやら皇子が、安宿媛の家を訪れてきたらしい。
「えぇ、私は大丈夫よ」
「かしこまりました。では皇子をこちらにお連れします」
そう言うと、使用人の女性は首皇子を迎えに、いそいそとその場を離れていった。
首皇子とは、安宿媛の部屋で顔を合わせたり、外の庭で草木をながめながら、たわいもない会話を交わしたりしていた。
また折にふれて、彼女の親が間に入ることもしばしあった。
安宿媛にとっては、首皇子と会えるだけで心が弾み、両親がそばにいても、特に気になることはなかった。だが首皇子のほうは、どこか緊張しているようで、その様子が安宿媛には、かえって可笑しく思えた。
そんなことを考えていると、首皇子がいよいよ彼女の部屋の前までやってきた。
「安宿媛、俺だけど、中に入っても良いかな?」
「まあ、首皇子、いらしたのね」
安宿媛は慌てて立ち上がり、部屋の入り口まで歩み寄って板戸を開き、彼を出迎えた。
「皇子、今日はいつもより早いのね」
そう言って、彼女は皇子を部屋の中へ招き入れた。
首皇子も安宿媛に続いて中へと足を踏み入れ、二人は並んで床に腰を下ろした。
二人の周囲には、ひときわ美しい牡丹唐草(ぼたんからくさ)の文様が入った几帳が置かれ、そこだけが、ひとつの空間のようにゆるやかに区切られている。
以前は、安宿媛があまりに書写に熱心だったため、部屋には木簡や紙が多く置かれていた。だが、それでは皇子をもてなすには具合が悪いと両親らが考え、部屋の中はあらためて整理されていた。
「今日は、用事が早く終わってしまってね。部屋にいても、今は囲碁の相手もいないだろう?それなら、早めに君のところへ行ったほうが楽しいと思ったんだ」
「そういえば、皇子は囲碁をされるのね。私は普段、使用人たちと双六をするけれど」
安宿媛は貴族の娘らしく、団扇を顔の前に置き、口元をそっと隠すようにして答えた。
双六は、賽を振って駒を進め、向かい合った相手より先にすべての駒を運び終えたほうが勝ちとなる遊びで、深い思考を要さず、運の巡りを楽しむものとして、宮中の女性たちの間でも親しまれていた。
「女性の間では双六が流行っているからね。まあ、俺は囲碁のほうが、頭を切り替えるのに向いているんだ」
「まあ、なら今度ぜひ、教えてほしいくらいだわ」
安宿媛はそう言って、ふっと微笑んだ。囲碁という遊びに、心を引かれている様子が、その表情からも自然と伝わってくる
「まあ、それなら構わないよ」
囲碁は、黒と白の碁石を用いて陣地を競う遊びで、遣唐使を通じて伝えられ、貴族や僧侶の間で嗜まれてきたものだった。首皇子にとっては、考えを巡らせながら木盤に向かうその時間が、束の間、己の立場を忘れさせてくれる。
「そういえば、囲碁といえば、真備が得意みたいなの。彼とも一度、手合わせをお願いしてみたいわ」
「真備って、あの下道真備(しもつみちまきび)のこと? 学生の」
「えぇ、そうよ。彼は本当に優秀で、初めてお会いしてからも、時々こちらから訪ねているの」
それを聞いた首皇子は、思わず息を呑み、わずかに表情をこわばらせた。
「まさか......貴族の君が、一人でそんな男のもとへ通っているのかい?」
この二ヶ月のあいだ、首皇子と話ができるだけで嬉しく、安宿媛は不思議と、真備のことを彼に話す機会を持たずにいた。
周囲の人々の心配をよそに、二人の関係は至って良好である。もともと住まいもほど近く、これまで顔を合わせてこなかったことのほうが、かえって不思議に思えるくらいだ。
今日も安宿媛は、自分の部屋で彼の訪れを待っていた。
数年前から庭に植えられていた梅の木が、今年になってようやく花をつけ、家の使用人たちも、なんと縁起が良いことかと、心もまた、しばし弾んでいた。
また、首皇子が足繁く通うようになってからというもの、もてなしとして、彼の好む飲み物や菓子が、いつも整えられるようになっている。
そして、男性の訪れでもあるため、彼女の顔がそっと隠れるよう、団扇も常に、安宿媛のそばに置かれていた。
安宿媛にとってこの二ヶ月は、あまりに満ち足りた日々で、自然と笑みがこぼれることも増えていた。
「でもこの二ヶ月間で、だいぶ首皇子の行動も分かってきたわ。まさか彼も、私が渡した布を今も身につけてくれていたなんて......」
そのことを思うだけでも、何とも言えない嬉しさが、胸の奥からこみ上げてくる。
「安宿媛、首皇子が来られました。ここにお通ししてもよろしいですか?」
彼女の部屋の外から、使用人の女性が声をかけてきた。どうやら皇子が、安宿媛の家を訪れてきたらしい。
「えぇ、私は大丈夫よ」
「かしこまりました。では皇子をこちらにお連れします」
そう言うと、使用人の女性は首皇子を迎えに、いそいそとその場を離れていった。
首皇子とは、安宿媛の部屋で顔を合わせたり、外の庭で草木をながめながら、たわいもない会話を交わしたりしていた。
また折にふれて、彼女の親が間に入ることもしばしあった。
安宿媛にとっては、首皇子と会えるだけで心が弾み、両親がそばにいても、特に気になることはなかった。だが首皇子のほうは、どこか緊張しているようで、その様子が安宿媛には、かえって可笑しく思えた。
そんなことを考えていると、首皇子がいよいよ彼女の部屋の前までやってきた。
「安宿媛、俺だけど、中に入っても良いかな?」
「まあ、首皇子、いらしたのね」
安宿媛は慌てて立ち上がり、部屋の入り口まで歩み寄って板戸を開き、彼を出迎えた。
「皇子、今日はいつもより早いのね」
そう言って、彼女は皇子を部屋の中へ招き入れた。
首皇子も安宿媛に続いて中へと足を踏み入れ、二人は並んで床に腰を下ろした。
二人の周囲には、ひときわ美しい牡丹唐草(ぼたんからくさ)の文様が入った几帳が置かれ、そこだけが、ひとつの空間のようにゆるやかに区切られている。
以前は、安宿媛があまりに書写に熱心だったため、部屋には木簡や紙が多く置かれていた。だが、それでは皇子をもてなすには具合が悪いと両親らが考え、部屋の中はあらためて整理されていた。
「今日は、用事が早く終わってしまってね。部屋にいても、今は囲碁の相手もいないだろう?それなら、早めに君のところへ行ったほうが楽しいと思ったんだ」
「そういえば、皇子は囲碁をされるのね。私は普段、使用人たちと双六をするけれど」
安宿媛は貴族の娘らしく、団扇を顔の前に置き、口元をそっと隠すようにして答えた。
双六は、賽を振って駒を進め、向かい合った相手より先にすべての駒を運び終えたほうが勝ちとなる遊びで、深い思考を要さず、運の巡りを楽しむものとして、宮中の女性たちの間でも親しまれていた。
「女性の間では双六が流行っているからね。まあ、俺は囲碁のほうが、頭を切り替えるのに向いているんだ」
「まあ、なら今度ぜひ、教えてほしいくらいだわ」
安宿媛はそう言って、ふっと微笑んだ。囲碁という遊びに、心を引かれている様子が、その表情からも自然と伝わってくる
「まあ、それなら構わないよ」
囲碁は、黒と白の碁石を用いて陣地を競う遊びで、遣唐使を通じて伝えられ、貴族や僧侶の間で嗜まれてきたものだった。首皇子にとっては、考えを巡らせながら木盤に向かうその時間が、束の間、己の立場を忘れさせてくれる。
「そういえば、囲碁といえば、真備が得意みたいなの。彼とも一度、手合わせをお願いしてみたいわ」
「真備って、あの下道真備(しもつみちまきび)のこと? 学生の」
「えぇ、そうよ。彼は本当に優秀で、初めてお会いしてからも、時々こちらから訪ねているの」
それを聞いた首皇子は、思わず息を呑み、わずかに表情をこわばらせた。
「まさか......貴族の君が、一人でそんな男のもとへ通っているのかい?」
この二ヶ月のあいだ、首皇子と話ができるだけで嬉しく、安宿媛は不思議と、真備のことを彼に話す機会を持たずにいた。



