美濃への行幸から戻って、数日が経ったころのこと。
安宿媛は変わらず、自宅で筆を取っては、書写に没頭していた。
今は昼過ぎの日が高く、冬の寒さがいっそう深まる時期にさしかかっていた。そのため彼女は、少し離れたところに火鉢を置き、膝の上には布を重ねて、冷え込む空気にじっと耐えていた。
(何だか、以前よりも良い字が書けている気がするわ。ここ最近はいろいろな出来事があったもの。そのことが、私の筆先にも自然と現れているのかしら)
そんなことを考えていた、そのときのこと。急に、庭のほうから誰かが彼女の部屋へ向かって、ドタドタと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「安宿媛ー!」
(使用人の女性だわ。一体、どうしたのかしら)
安宿媛は仕方なく筆をそばの硯に置くと、机に手を添えてそっと立ち上がり、裳の裾を軽く引きずるようにして、部屋の入り口の板戸の前へと向かった。
「一体、どうしたというの。そんなに慌てて」
「いえ、今ちょうど、安宿媛にお会いしたいという方が来られまして」
「え、私に?」
「とにかく、私と一緒に来てください!」
使用人もかなり動揺している様子で、誰が訪ねてきたのかも告げないまま、安宿媛をその人物が待つ場所へと、急いで連れて行った。
目的地の前まで来ると、使用人は安宿媛をそっと残し、そそくさとその場を離れていった。
どうやら相手は、安宿媛の自宅の庭にいるらしく、庭の椿の木に軽く手を触れながら、彼女の訪れをひとり待っているようだった。
(どういうことなの......)
彼女はそう思いながら、その人物のもとへゆっくりと歩みを進める。そして、ようやくその相手の姿をはっきりと捉えることができた。
相手は上等な衣を身にまとい、冠の細工も細やかで見事なものだった。
安宿媛は思わず、その姿に目を奪われる。
「どうして、あなたがここに?」
相手もその声に気づいたらしく、ふと彼女の方へと振り返る。
その横顔を見た瞬間、安宿媛は思わず両手で口を押さえた。そこに立っていたのは、ほかでもない首皇子だったのだ。
そして彼は、安宿媛の顔を見るなり、ふっと目を細めて優しく微笑んだ。
「安宿媛、良かった。無事に君に会えて。今日は、その」
だが、安宿媛はその言葉を最後まで聞くこともせず、思わず彼のもとへ駆け寄っていた。
「首皇子、これはどういうことなのですか?」
「うん。先日の行幸のあと、俺なりに少し考えたことがあって」
「え、考えたこと?」
安宿媛の胸に、かすかな動揺が走った。それは、あの日に二人で過ごした時間のことだろうか。だから、そのあと彼と話す機会がなかったのかもしれない。彼女の脳裏に、ふとそんな考えがよぎる。
そんな安宿媛の不安をよそに、首皇子は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、静かに口を開いた。
「あぁ、この先のことがどうなるのか、正直、俺にも分からない。だけど、君から逃げずに、真っ直ぐ向き合ってみようと思ったんだ」
(うそ、首皇子が私と?)
その言葉は、安宿媛は強く打たれた。
思いがけない一言に、息がわずかに詰まり、しばらく言葉が出なかった。
いてもたってもいられなくなった彼女は、そっと彼のそばへ歩み寄った。そして、衣のあたりに指を触れ、額をその胸へと寄せる。
椿のほのかな香りがふと鼻先をかすめ、冬の冷えた空気の中で、彼のぬくもりは思いのほか温かかった。
「皇子、これからは、会えるんですね」
安宿媛は嬉しさのあまり、思わず目に涙を浮かべた。そして、彼の衣にそっと指をかけたまま、ひどく小さな声で、ほんの少しだけ泣いた。
「あぁ、そうだよ。だけど……安宿媛、その……あまり人に見られると困るから」
首皇子は、そんな彼女の様子にひどく動揺し、慌てて周囲を見渡した。
しかし、家の使用人たちも気を利かせているのか、誰ひとり外にはいない。
彼はその光景に、ほんの少し安堵した。木陰で男女が寄り添うなど、誰かに見られでもしたら、さすがに気恥ずかしくてならない。
そんな首皇子の動揺など、全く気にするふうでもなく、安宿媛はなおも彼から離れようとしなかった。
「良かった。本当に、良かった」
結局、彼も彼女が落ち着くまでは、好きにさせておくほかになかった。
こうしてこの日を境に、首皇子は時々、安宿媛のもとへ通うようになる。
だが周囲の人々からしてみれば、二人の婚姻がいよいよ動き始めたのだと受け取る者も多く、やがてその噂は京内中へと広まっていく。
そして、この噂を喜ぶ者もいれば、藤原氏の権力がいっそう強まるのではと、ひどく警戒する者も現れるだろう。
そのため、首皇子と安宿媛の関係は、本人たちが思っている以上に、この日をきっかけに大きな出来事となっていた。
安宿媛は変わらず、自宅で筆を取っては、書写に没頭していた。
今は昼過ぎの日が高く、冬の寒さがいっそう深まる時期にさしかかっていた。そのため彼女は、少し離れたところに火鉢を置き、膝の上には布を重ねて、冷え込む空気にじっと耐えていた。
(何だか、以前よりも良い字が書けている気がするわ。ここ最近はいろいろな出来事があったもの。そのことが、私の筆先にも自然と現れているのかしら)
そんなことを考えていた、そのときのこと。急に、庭のほうから誰かが彼女の部屋へ向かって、ドタドタと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「安宿媛ー!」
(使用人の女性だわ。一体、どうしたのかしら)
安宿媛は仕方なく筆をそばの硯に置くと、机に手を添えてそっと立ち上がり、裳の裾を軽く引きずるようにして、部屋の入り口の板戸の前へと向かった。
「一体、どうしたというの。そんなに慌てて」
「いえ、今ちょうど、安宿媛にお会いしたいという方が来られまして」
「え、私に?」
「とにかく、私と一緒に来てください!」
使用人もかなり動揺している様子で、誰が訪ねてきたのかも告げないまま、安宿媛をその人物が待つ場所へと、急いで連れて行った。
目的地の前まで来ると、使用人は安宿媛をそっと残し、そそくさとその場を離れていった。
どうやら相手は、安宿媛の自宅の庭にいるらしく、庭の椿の木に軽く手を触れながら、彼女の訪れをひとり待っているようだった。
(どういうことなの......)
彼女はそう思いながら、その人物のもとへゆっくりと歩みを進める。そして、ようやくその相手の姿をはっきりと捉えることができた。
相手は上等な衣を身にまとい、冠の細工も細やかで見事なものだった。
安宿媛は思わず、その姿に目を奪われる。
「どうして、あなたがここに?」
相手もその声に気づいたらしく、ふと彼女の方へと振り返る。
その横顔を見た瞬間、安宿媛は思わず両手で口を押さえた。そこに立っていたのは、ほかでもない首皇子だったのだ。
そして彼は、安宿媛の顔を見るなり、ふっと目を細めて優しく微笑んだ。
「安宿媛、良かった。無事に君に会えて。今日は、その」
だが、安宿媛はその言葉を最後まで聞くこともせず、思わず彼のもとへ駆け寄っていた。
「首皇子、これはどういうことなのですか?」
「うん。先日の行幸のあと、俺なりに少し考えたことがあって」
「え、考えたこと?」
安宿媛の胸に、かすかな動揺が走った。それは、あの日に二人で過ごした時間のことだろうか。だから、そのあと彼と話す機会がなかったのかもしれない。彼女の脳裏に、ふとそんな考えがよぎる。
そんな安宿媛の不安をよそに、首皇子は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、静かに口を開いた。
「あぁ、この先のことがどうなるのか、正直、俺にも分からない。だけど、君から逃げずに、真っ直ぐ向き合ってみようと思ったんだ」
(うそ、首皇子が私と?)
その言葉は、安宿媛は強く打たれた。
思いがけない一言に、息がわずかに詰まり、しばらく言葉が出なかった。
いてもたってもいられなくなった彼女は、そっと彼のそばへ歩み寄った。そして、衣のあたりに指を触れ、額をその胸へと寄せる。
椿のほのかな香りがふと鼻先をかすめ、冬の冷えた空気の中で、彼のぬくもりは思いのほか温かかった。
「皇子、これからは、会えるんですね」
安宿媛は嬉しさのあまり、思わず目に涙を浮かべた。そして、彼の衣にそっと指をかけたまま、ひどく小さな声で、ほんの少しだけ泣いた。
「あぁ、そうだよ。だけど……安宿媛、その……あまり人に見られると困るから」
首皇子は、そんな彼女の様子にひどく動揺し、慌てて周囲を見渡した。
しかし、家の使用人たちも気を利かせているのか、誰ひとり外にはいない。
彼はその光景に、ほんの少し安堵した。木陰で男女が寄り添うなど、誰かに見られでもしたら、さすがに気恥ずかしくてならない。
そんな首皇子の動揺など、全く気にするふうでもなく、安宿媛はなおも彼から離れようとしなかった。
「良かった。本当に、良かった」
結局、彼も彼女が落ち着くまでは、好きにさせておくほかになかった。
こうしてこの日を境に、首皇子は時々、安宿媛のもとへ通うようになる。
だが周囲の人々からしてみれば、二人の婚姻がいよいよ動き始めたのだと受け取る者も多く、やがてその噂は京内中へと広まっていく。
そして、この噂を喜ぶ者もいれば、藤原氏の権力がいっそう強まるのではと、ひどく警戒する者も現れるだろう。
そのため、首皇子と安宿媛の関係は、本人たちが思っている以上に、この日をきっかけに大きな出来事となっていた。



