平城京の導き ~古都の物語~

 その後、元正天皇とその一行は、無事に目的地である不破の行宮(あんぐう)へと辿り着いた。
 ここは不破関が置かれ、東国と畿内を結ぶ要衝の地で、天皇の行幸の折には必ず立ち寄る場所とされている。
 不破の行宮はごく短い期間で整えられたもので、平城宮と比べるとどこか質素な造りである。白い板塀に囲まれた敷地の奥には正殿があり、その脇には天皇の寝殿が、ひっそりと寄り添うように建てられていた。
 そのほか、従者が使用する舎や倉が周囲に点在し、行幸一行を陰から支える役目を果たしている。
 行宮の周りには、多くの警護の兵が立ち、辺りの山々から流れ来る風が、その者たちの衣をさらりと揺らしていた。
 やがて、その地に暮らす人々が次々と集まり、天皇と従者たちを手厚く迎え入れてくれた。
 元正天皇は人々の前に姿を現されると、従者が差し出した持ち運びの椅子にそっと腰をかける。そして、身分の隔てもなく、それぞれが抱える訴えや切実な願いに、ひとつひとつ丁寧に耳を傾けられた。
 そんな天皇の慈悲深さに、人々は深い感銘を受け、手を合わせて心から感謝の言葉を述べていた。
 天皇のそばには首皇子が控え、まだ若いながらも真剣な面持ちで、人々の思いにそっと耳を傾けている。
(首皇子がこんなふうに、真摯に人々の言葉を聞き入れている姿なんて、初めて見たわ)
 安宿媛は、そんな二人の姿を少し離れた所から、ひっそりと見守っていた。彼の成長ぶりが目に留まり、頼もしく思う反面、なぜだか、ふっと寂しさが込み上げてくる。
 安宿媛がそんな思いで、首皇子を見つめていると、ふいに一人の男性がそのとなりに並んで立った。
 相手はどこか不機嫌そうな面持ちで、じっと天皇と首皇子へ視線を向けている。その人物こそ、かの長屋王であった。
「ふん、地震の原因が自身の政にあると、ああして認めてみせておられるのだろう。だがそれを言うなら、貴族たちが己の立場もわきまえず、横から口を挟んでくる。そのことこそ問題ではないか」
 不比等の娘である安宿媛の前まで、長屋王は何の遠慮もなく言い放った。それとも、まだ十四歳の彼女など、恐るるに足りないと感じているのだろうか。皇族としての彼の自尊心は、そのまま鋭い刃のようにして、彼女へと突き刺さってくる。
(こ、この人は、高貴な皇族のお方でありながら、なんてことを言うの)
 安宿媛から見れば、天皇と首皇子の振る舞いは素晴らしいものだと思う。それは貴族であっても同じで、皆が同じ方向を向くべきではないのか、そう感じずにはいられなかった。
 そんな長屋王の態度に、安宿媛はつい我慢ができず、思わず口を開いてしまった。
「恐れ入ります、長屋王。天皇も皇太子も、まずは御自ら手本となって、民の声に耳を傾け、共に歩もうとしておられます。わたくしも貴族の娘ではありますが……今は皆で力を合わせ、共に政を支えるべきではないのでしょうか」
「まあ、天皇も不比等殿のことを、なにかと頼りにしておられる。だが本来なら、我ら皇族がもっとしっかりしておれば済むこと」
 長屋王の言葉には、あからさまに貴族を見下す響きが帯びていた。政の中心に立つべきは自分たち皇族なのだ――彼は、そう確信しているのだろう。
 安宿媛はその言葉に、一瞬、息を呑む。
「念のため言っておくが、そなたの父上と協力したくないわけではない。平城京への遷都の折から今日に至るまで、彼の力添えがなければ成し得なかったことも、確かだ」
「それを聞き、少し安心いたしました。父・不比等も、長屋王さまと対立したいなどとは、決して考えてはおりません」
「あぁ、政に関しては、私も同感だ」
 そう言うと、長屋王は再び天皇と首皇子へと目を向けた。
 安宿媛も、その視線につられるようにして、思わず二人の姿を見つめる。
 陽の高い昼下がり、その光景はどこか眩しく思えた。人々の列は後を絶たず、それでも彼らはひとりひとりと向き合おうとしているように見える。
「だが、藤原氏の娘を、これ以上嫁がせるのだけは、私は反対だ」
「え……?」
「不比等殿のことだ。そなたを含め、自身の一族の娘を皇族へ嫁がせようと目論んでいるのだろう、今の皇太子に」
 安宿媛はその言葉に、思わず胸がざわめいた。ふいに父の意図を突かれ、返す言葉が見つからない。
 その反応も、長屋王にはすべて見透かされていたようだった。
「やはり当たっていたようだ。まあ良い。そんなことを、今ここでそなたに言ったところで仕方のない話。結局のところ、私もそなたも、不比等の手の内にあるということだ」
 安宿媛は、これ以上は何も言えなかった。長屋王の言葉は、どれも的を射ていたからだ。
 彼女が黙り込んでしまったのを見て、長屋王もそれ以上、話を続けるのをやめた。
「では、私はこれで失礼する。お前もあまり政に口を出さぬ方が身のためだ。それだけは、覚えておけ」
 それだけ言い残し、どこか嫌味を含んだ気配を漂わせながら、長屋王は裾をひるがえしてその場を離れていった。
(私には、どう反論もできない……。どうすれば争いなど起こらず、平穏な世の中になるのかしら)
 安宿媛は、自分の力のなさを、ただ思い知らされるばかりだった。