翌日になり、安宿媛はふと目を開いた。
周囲には朝露が薄らと降りており、かすかな陽の光がその場に入り込んで、岩陰の影が少しだけ明るくなっていた。布をかぶっていたとはいえ、頬はひんやりと冷えている。
「もう、朝なのね」
安宿媛はそっと上体を傾け、隣へと目を向けた。けれど、そこに首皇子の姿はなかった。
彼女は皇子がいないことに不安を覚え、慌てて身を起こした。体を覆っていた布を払いのけ、周囲を見回してみる。
(どこかへ行ってしまったの……?)
彼がいないだけで、思わず不安がよぎる。
しかし、ほどなくして少し離れた場所に、筒を手にした首皇子の姿が見えた。その瞬間、安宿媛はほっと息をつく。どうやら、湧水を汲みに行っていただけのようだ。
「ごめん。ちょっと水を汲みに行っていたんだ。そろそろ君が起きる頃じゃないかと思ってね」
「目を覚ましたら首皇子がいなくて、心配したじゃないですか」
「それは悪かったよ。とりあえず、君も水を飲んでおいたほうがいい」
そう言って、首皇子は筒に汲んできた水を彼女に手渡した。
筒のなかを覗くと、透き通った水がかすかに揺れ、冷たさが直に伝わってくる。
安宿媛はその水を受け取り、そのまま一気に飲み干した。冷たい水が口の中にいっぱいに広がり、喉をすっと潤した。
「朝の冷たい水って、何だか気持ちまでさっぱりしますね」
「本当そうだね。じゃあ、早いところ朝食を済ませて、先を急いだほうがいい。おそらく叔母上たちのほうが先に進んでいるだろうし」
「そうですね。お父さまも、きっと心配しておられるでしょうから」
「多分、お祖父さま──君のお父さまは、別のことでも心配していそうだけど」
「え、別のことですか?」
「いや、何でもない。とりあえず先を急ごう」
そう言うと、彼は優しく手を差し伸べてくれた。
思いがけないその仕草に、安宿媛は胸が少し温かくなるのを感じる。その嬉しさを噛みしめながら、彼女は差し出された手をそっと握り返した。
「えぇ、皇子、そうしましょう」
こうして二人は、簡素な朝の食事を手早く済ませると、行幸の一行へ追いつくべく、再び歩き始めた。
道のりは相変わらず険しい。けれど、昨日ほどの苦しさは、不思議と感じなかった。それは、互いの胸の内を打ち明けられたことが、大きかったのだろう。
しばらく歩いていると、やがて獣道を抜け、人の往来が続く道へと出ることができた。ここまで来れば、この道をひたすら進めばよいだけだ。山道を抜けきったことで、眩いほどの強い陽の光が、一気に二人を照らした。
だがその日差しを浴びると、なぜか不思議と力が湧いてくる。
「首皇子、きっとこの先に皆がいるはずです。あともう少しだけ、頑張りましょう!」
「あぁ、君の言うとおりだ。このまま一気に進もう」
二人がさらに歩みを進めていくと、彼らの視線の先に、何人もの人々が集まって待機している姿が見えた。どうやら先へ進んでいた者たちが、ここで足を止め、二人を待っていてくれたようだ。
「良かった、皆が待っていてくれたみたいですね」
二人は急いで彼らのもとへと向かった。
すると、その場にいた者たちも二人の姿を確認するなり、慌てて駆け寄ってくる。そして、思わず安堵の声を漏らした。
「皇子たちが無事にここまで来られて、本当に良かったです」
従者の男の一人が、咽び泣きそうになるのを堪えて、そう告げた。安宿媛と首皇子以上に、二人の道のりを案じていたのだ。
その中には当然不比等の姿もあり、無言で彼女の前へと進み出ると、ひどく睨みつけた。そこに、彼のただならぬ気配を感じずにはいられない。
安宿媛は父の異変を察し、即座に深々と頭を下げ、謝りの言葉をつづった。
「ごめんなさい、お父さま。私の不注意で、首皇子まで巻き込む形になってしまって……」
「お祖父さま、それは違います!俺が彼女を引き留めようとしたとき、彼女の体が傾いてしまい、それで崖の上から滑り落ちてしまった。悪いのは俺です!」
そう言って彼もまた、不比等に深く頭を下げて謝った。
不比等は、二人をしばらく無言で見つめてから、小さくため息を漏らした。その瞬間、張りつめていた空気がふっと解けた。
「首皇子、あなたにそこまで謝られては、怒る気も失せてしまった。娘の件は感謝しています。そして、あなたも無事で本当に良かった」
不比等はそう言うと、安宿媛と首皇子の肩を、いきなり自分の方へと強く抱き寄せた。その手からは、彼の力強さがひしひしと伝わってくる。
「お前たちは、私の大事な娘と孫だ。二人とも、無事でいてくれて本当に良かった......」
二人はその言葉を聞き、思わず声を失った。だが、不比等の胸の内にある強い想いがひしひしと伝わってきて、胸の奥が熱くなる。
不比等はそれから二人の肩を、少し強めに数回叩いたのち、さっと身を離した。そして、他の従者たちに向けて声を上げた。
「では、時間もだいぶ押している。急いで出発するとしよう」
周囲には朝露が薄らと降りており、かすかな陽の光がその場に入り込んで、岩陰の影が少しだけ明るくなっていた。布をかぶっていたとはいえ、頬はひんやりと冷えている。
「もう、朝なのね」
安宿媛はそっと上体を傾け、隣へと目を向けた。けれど、そこに首皇子の姿はなかった。
彼女は皇子がいないことに不安を覚え、慌てて身を起こした。体を覆っていた布を払いのけ、周囲を見回してみる。
(どこかへ行ってしまったの……?)
彼がいないだけで、思わず不安がよぎる。
しかし、ほどなくして少し離れた場所に、筒を手にした首皇子の姿が見えた。その瞬間、安宿媛はほっと息をつく。どうやら、湧水を汲みに行っていただけのようだ。
「ごめん。ちょっと水を汲みに行っていたんだ。そろそろ君が起きる頃じゃないかと思ってね」
「目を覚ましたら首皇子がいなくて、心配したじゃないですか」
「それは悪かったよ。とりあえず、君も水を飲んでおいたほうがいい」
そう言って、首皇子は筒に汲んできた水を彼女に手渡した。
筒のなかを覗くと、透き通った水がかすかに揺れ、冷たさが直に伝わってくる。
安宿媛はその水を受け取り、そのまま一気に飲み干した。冷たい水が口の中にいっぱいに広がり、喉をすっと潤した。
「朝の冷たい水って、何だか気持ちまでさっぱりしますね」
「本当そうだね。じゃあ、早いところ朝食を済ませて、先を急いだほうがいい。おそらく叔母上たちのほうが先に進んでいるだろうし」
「そうですね。お父さまも、きっと心配しておられるでしょうから」
「多分、お祖父さま──君のお父さまは、別のことでも心配していそうだけど」
「え、別のことですか?」
「いや、何でもない。とりあえず先を急ごう」
そう言うと、彼は優しく手を差し伸べてくれた。
思いがけないその仕草に、安宿媛は胸が少し温かくなるのを感じる。その嬉しさを噛みしめながら、彼女は差し出された手をそっと握り返した。
「えぇ、皇子、そうしましょう」
こうして二人は、簡素な朝の食事を手早く済ませると、行幸の一行へ追いつくべく、再び歩き始めた。
道のりは相変わらず険しい。けれど、昨日ほどの苦しさは、不思議と感じなかった。それは、互いの胸の内を打ち明けられたことが、大きかったのだろう。
しばらく歩いていると、やがて獣道を抜け、人の往来が続く道へと出ることができた。ここまで来れば、この道をひたすら進めばよいだけだ。山道を抜けきったことで、眩いほどの強い陽の光が、一気に二人を照らした。
だがその日差しを浴びると、なぜか不思議と力が湧いてくる。
「首皇子、きっとこの先に皆がいるはずです。あともう少しだけ、頑張りましょう!」
「あぁ、君の言うとおりだ。このまま一気に進もう」
二人がさらに歩みを進めていくと、彼らの視線の先に、何人もの人々が集まって待機している姿が見えた。どうやら先へ進んでいた者たちが、ここで足を止め、二人を待っていてくれたようだ。
「良かった、皆が待っていてくれたみたいですね」
二人は急いで彼らのもとへと向かった。
すると、その場にいた者たちも二人の姿を確認するなり、慌てて駆け寄ってくる。そして、思わず安堵の声を漏らした。
「皇子たちが無事にここまで来られて、本当に良かったです」
従者の男の一人が、咽び泣きそうになるのを堪えて、そう告げた。安宿媛と首皇子以上に、二人の道のりを案じていたのだ。
その中には当然不比等の姿もあり、無言で彼女の前へと進み出ると、ひどく睨みつけた。そこに、彼のただならぬ気配を感じずにはいられない。
安宿媛は父の異変を察し、即座に深々と頭を下げ、謝りの言葉をつづった。
「ごめんなさい、お父さま。私の不注意で、首皇子まで巻き込む形になってしまって……」
「お祖父さま、それは違います!俺が彼女を引き留めようとしたとき、彼女の体が傾いてしまい、それで崖の上から滑り落ちてしまった。悪いのは俺です!」
そう言って彼もまた、不比等に深く頭を下げて謝った。
不比等は、二人をしばらく無言で見つめてから、小さくため息を漏らした。その瞬間、張りつめていた空気がふっと解けた。
「首皇子、あなたにそこまで謝られては、怒る気も失せてしまった。娘の件は感謝しています。そして、あなたも無事で本当に良かった」
不比等はそう言うと、安宿媛と首皇子の肩を、いきなり自分の方へと強く抱き寄せた。その手からは、彼の力強さがひしひしと伝わってくる。
「お前たちは、私の大事な娘と孫だ。二人とも、無事でいてくれて本当に良かった......」
二人はその言葉を聞き、思わず声を失った。だが、不比等の胸の内にある強い想いがひしひしと伝わってきて、胸の奥が熱くなる。
不比等はそれから二人の肩を、少し強めに数回叩いたのち、さっと身を離した。そして、他の従者たちに向けて声を上げた。
「では、時間もだいぶ押している。急いで出発するとしよう」



