氷高皇女が、元正天皇として即位の礼を迎える日が、ついに訪れた。
その日、平城宮の空はよく晴れ、透き通るような青さを見せている。
右大臣・藤原不比等は、その静かな朝を眺めながら、大極殿のそばまで歩いて来ていた。不比等の邸宅は、平城宮のすぐ東にあり、妻の三千代や娘の安宿媛とともに暮らしている。
首皇子の住まう東院もまた平城宮内にあったが、そこへ出入りを許される者は限られていた。そのため、安宿媛でさえ容易には訪れることができない。
当初、彼女は父である不比等に、その事で強く詰め寄ったことがあった。だが父親からは「それは皇子自身のご意向によるものだ」と言われてしまい、不本意ではあるものの、彼女は大人しく彼のいう事を受け入れた。
ふと不比等は、大極殿の屋根へと視線を向けた。鴟尾が朝に照らされている。
また彼以外の、式に参列する官人や貴族たちが次々と宮城へ向かっていた。人々の衣擦れの音、馬のいななき、遠くからは、雅楽の調べが聞こえてくる。きっと新たな天皇の誕生を祝って、奏雅楽や作舞も奉納されるのだろう。
「今日の即位式も、何事もなく行われれば良いが……」
小さく呟くその声には、彼自身が歩んできた長い年月が滲んでいるようだ。今でこそ彼は朝廷の中心に立つ権力者であったが、その道は決して平坦なものではなかった。
壬申の乱――あの戦乱の日々が、彼の運命をも大きく変えた。
天智天皇の弟・大海人皇子と、その子である大友皇子が争い、やがて大海人皇子が天武天皇として即位した、あの内乱である。
不比等は、その戦いにおいて、父・鎌足の遺志を受け継ぎながらも、大友皇子側にいたと見なされた。そのため、高貴な家に生まれながら、大舎人として下級官人から仕えることを余儀なくされた。
だが彼はそこで諦めたりなどせず、ひたすらに己を磨き、学問と実務を積み重ねた。そしてその能力が徐々に認められるようになり、やがて天武・持統・文武・元明と、四代の天皇に仕えることとなった。
そんな過去を思い返していたその時のこと。静かに彼の元に近づく足音があった。不比等が振り返ると、そこに立っていたのはなんと皇族の長屋王である。
彼は天武天皇の皇子・高市皇子の子であり、皇族の中でも特に重要とされる存在だった。そして彼は、不比等の娘・長娥子(ながこ)を妻に迎えており、義理の親子関係でもある。
「これは長屋王、お早いお着きで」
「ええ、何しろ今日は氷高皇女の御即位の日ですからね。同じ皇族として、この日を迎えられるのは誠にめでたいことです」
「さすがは長屋王、まこと皇族らしきお姿だ。ところで、娘の長娥子の様子はいかがかな?」
「変わらず元気にしております。子らも皆すくすくと育っており、日々穏やかな暮らしを送っておりますよ」
長屋王と長娥子の間には三男一女の子を儲けていた。皇族と藤原氏、両者の結びつきは、政治の均衡を保つためにも欠かせない。
「そうか、それは何よりだ。では、また今度娘と孫に会いに、王の元へ伺わせていただきましょう」
そこには父親としての安堵の笑みを浮かべ、不比等は長屋王の顔をじっと見つめた。
「私は、どれほど地位が高くなろうと、家族というものは一心同体だと思っております。それは娘や息子だけでなく、妻、そして仕える主までも含めてです」
「義父上のおっしゃる通りです。どの時代でも、血を分けた者同士で争うほど悲しいことはない。あの壬申の乱のような争いは、もう二度と……」
「だからこそ、我らは天皇を中心とした国家体制を守らねばならぬのです」
不比等の声音には、かすかな緊張が出ている。それほどまでに彼にとっては本当に悲劇的な戦いでしかなかった。実際の内乱をこの目で見てきた彼だからこそ、再び血で国を染めるようなことは望んでいなかった。
「だがそれを、あの青年がどれほど理解しているのか……」
「それは首皇子のことですかな」
長屋王は少しため息を吐くようにしてうなずいてみせる。そんな彼の表情からは、少しばかり苛立ちの様子が垣間見られる。
「あの子はまだ十四歳、皇位を継ぐにはまだ若すぎる。だが、血筋の正しさは誰もが認めるところ。私は、新たな天皇となる氷高皇女が、首登皇子をきっと良き方向に導いてくださると信じております」
その日、平城宮の空はよく晴れ、透き通るような青さを見せている。
右大臣・藤原不比等は、その静かな朝を眺めながら、大極殿のそばまで歩いて来ていた。不比等の邸宅は、平城宮のすぐ東にあり、妻の三千代や娘の安宿媛とともに暮らしている。
首皇子の住まう東院もまた平城宮内にあったが、そこへ出入りを許される者は限られていた。そのため、安宿媛でさえ容易には訪れることができない。
当初、彼女は父である不比等に、その事で強く詰め寄ったことがあった。だが父親からは「それは皇子自身のご意向によるものだ」と言われてしまい、不本意ではあるものの、彼女は大人しく彼のいう事を受け入れた。
ふと不比等は、大極殿の屋根へと視線を向けた。鴟尾が朝に照らされている。
また彼以外の、式に参列する官人や貴族たちが次々と宮城へ向かっていた。人々の衣擦れの音、馬のいななき、遠くからは、雅楽の調べが聞こえてくる。きっと新たな天皇の誕生を祝って、奏雅楽や作舞も奉納されるのだろう。
「今日の即位式も、何事もなく行われれば良いが……」
小さく呟くその声には、彼自身が歩んできた長い年月が滲んでいるようだ。今でこそ彼は朝廷の中心に立つ権力者であったが、その道は決して平坦なものではなかった。
壬申の乱――あの戦乱の日々が、彼の運命をも大きく変えた。
天智天皇の弟・大海人皇子と、その子である大友皇子が争い、やがて大海人皇子が天武天皇として即位した、あの内乱である。
不比等は、その戦いにおいて、父・鎌足の遺志を受け継ぎながらも、大友皇子側にいたと見なされた。そのため、高貴な家に生まれながら、大舎人として下級官人から仕えることを余儀なくされた。
だが彼はそこで諦めたりなどせず、ひたすらに己を磨き、学問と実務を積み重ねた。そしてその能力が徐々に認められるようになり、やがて天武・持統・文武・元明と、四代の天皇に仕えることとなった。
そんな過去を思い返していたその時のこと。静かに彼の元に近づく足音があった。不比等が振り返ると、そこに立っていたのはなんと皇族の長屋王である。
彼は天武天皇の皇子・高市皇子の子であり、皇族の中でも特に重要とされる存在だった。そして彼は、不比等の娘・長娥子(ながこ)を妻に迎えており、義理の親子関係でもある。
「これは長屋王、お早いお着きで」
「ええ、何しろ今日は氷高皇女の御即位の日ですからね。同じ皇族として、この日を迎えられるのは誠にめでたいことです」
「さすがは長屋王、まこと皇族らしきお姿だ。ところで、娘の長娥子の様子はいかがかな?」
「変わらず元気にしております。子らも皆すくすくと育っており、日々穏やかな暮らしを送っておりますよ」
長屋王と長娥子の間には三男一女の子を儲けていた。皇族と藤原氏、両者の結びつきは、政治の均衡を保つためにも欠かせない。
「そうか、それは何よりだ。では、また今度娘と孫に会いに、王の元へ伺わせていただきましょう」
そこには父親としての安堵の笑みを浮かべ、不比等は長屋王の顔をじっと見つめた。
「私は、どれほど地位が高くなろうと、家族というものは一心同体だと思っております。それは娘や息子だけでなく、妻、そして仕える主までも含めてです」
「義父上のおっしゃる通りです。どの時代でも、血を分けた者同士で争うほど悲しいことはない。あの壬申の乱のような争いは、もう二度と……」
「だからこそ、我らは天皇を中心とした国家体制を守らねばならぬのです」
不比等の声音には、かすかな緊張が出ている。それほどまでに彼にとっては本当に悲劇的な戦いでしかなかった。実際の内乱をこの目で見てきた彼だからこそ、再び血で国を染めるようなことは望んでいなかった。
「だがそれを、あの青年がどれほど理解しているのか……」
「それは首皇子のことですかな」
長屋王は少しため息を吐くようにしてうなずいてみせる。そんな彼の表情からは、少しばかり苛立ちの様子が垣間見られる。
「あの子はまだ十四歳、皇位を継ぐにはまだ若すぎる。だが、血筋の正しさは誰もが認めるところ。私は、新たな天皇となる氷高皇女が、首登皇子をきっと良き方向に導いてくださると信じております」



