平城京の導き ~古都の物語~

 そして翌日になり、再び一行は歩き始めた。
 今日中には近江を抜け、そのまま美濃へと入ることになるだろう。
 季節はちょうど稲の収穫を終えた頃で、田んぼには刈り取られた稲束が整然と並べられていた。
 この地の農民たちは、その束を干すために並び替えたり、脱穀の準備を進めているようだ。
 やがて、遠くの農民たちが天皇一行の姿に気づき、驚いたように手を止めて、慌てて深く頭を下げてくる。
それに気づいた天皇は、従者をそばに呼び寄せ、そっと言葉を添えられた。
「今年も良い稲が取れたようだ。どうか、感謝していると伝えてくれぬか」
 従者は急いで馬を走らせ、農民たちのもとへ向かい、その言葉を丁寧に伝える。
 それを聞いた農民たちはたいそう感激したようで、先ほどよりもさらに深々と頭を下げていた。
 行幸の道中、天皇はこのようにして、その地に暮らす人々へ心を寄せ、感謝の言葉を述べられていたのだった。
 その光景に、一行の者たちも自然と背筋を正し、足並みを揃えて歩みを進めていく。
 安宿媛も、連日の疲れをほとんど見せることなく、父の前に乗って、馬の揺れに身を任せていた。
「お父さま、そういえば、あちらの輦には長屋王(ながやおう)が乗っているのですよね」
「あぁ、そうだが。それがどうかしたのか?」
「はい。あの方は、この道中でも輦からあまりお顔をお出しにならないものですから……」
「彼は、もともと今回の行幸にはあまり乗り気ではなかったようだ。だから、一人静かにしていたのだろう」
「まぁ、そうなのですね」
(長屋王のお屋敷も、私の住む場所からそれほど離れてはいないけれど、あまりお見かけすることはないのよね。前に大学寮へ向かう時に家の前を通ったぐらいかしら)
「お父さまは、長屋王のことをとても気にかけていらっしゃいますよね」
「あの人は、それだけ大きな影響力を持つ方だ。それに、血筋だけでいえば、彼が皇太子になっていても、まったくおかしくない状況だった」
「え、そうなのですか!」
 安宿媛は思わず驚きの声を上げてしまった。首皇子が皇太子となれたのも、父・不比等や周囲の者たちの思惑が入り交じる、きわどい均衡の中での立太子だったのだろうか。そんな考えが、胸をよぎる。
(首皇子は、どんな気持ちで皇太子になったのかしら)
「ああ。今の首皇子にとっては、もっとも脅威になりうる相手だろう」
「そこは……やはりお父さまたちのお力があったから、首皇子が皇太子でいられるのですよね?」
「私はただ、彼の父君の意思を尊重しているだけのことだ」
 だが実際には、首皇子の立太子を快く思わない者たちも少なからずいたはずだ。十四歳の彼は、そうした人々の目にどのように映っていたのだろ。蔑みの視線を向けられていたのではないか。
「それはそうかもしれませんが……でも、周りの皆は――」
「とにかく、お前も変な疑いはするな。いいな、分かったな!」
 不比等はぴしゃりと声を張った。その態度には、彼女をこの件に近づけまいとする明確な意思が感じられた。
「わ、分かりました。お父さま」
「私は、お前にはもっと普通の貴族の娘として、暮らしてほしいと思っている。だが最近のお前を見ていると、少し考えを改めるべきかもしれない」
「それは、一体どういう意味ですか?」
 安宿媛は何のことなのか分からず、思わず首を傾げた。
「……まぁ、私のただの独り言だ。さあ、もうすぐ先で休みを挟むだろう。お前も少し休んでいなさい」
 不比等はそう言うなり、従者たちに先へ進んで休憩場所を確保するよう指示を出した。
その声を受け、数名の従者は馬を駆り立てて前方へと走り去っていく。
 しばらくして戻ってきた従者の報告では、この先に湖の水が流れ込む場所があり、そこで水の補給もできるとのことだった。
 一行はその場でいったん歩みを止め、休息を兼ねて立ち止まった。そして、従者たちが必要なだけ水を筒へと汲み入れていく。
 やがて山の麓に差しかかると、本日の最後の休息を取ることとなった。