平城京の導き ~古都の物語~

 首皇子が皇太子となってから、もう一年ほどが過ぎていた。
 ここは奈良の都、平城京の左京にある左大臣・藤原不比等の邸宅。
 広い回廊が連なり、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が朝日を浴びて、少し輝いて見える。
 季節は秋の盛りで、茶色を帯びた葉が庭のあちこちに落ち、使用人たちが箒を手に、静かにそれを掃き寄せていた。
 不比等の妻、橘三千代(たちばなのみちよ)は、()を軽く持ち上げながら中庭を早足で横切っていく。彼女は県犬養氏(あがたいぬかいうじ)の出身で、若いころ後宮に出仕し、その聡明さを買われた女性だ。
 三千代は回廊を抜け、娘の部屋の前にやって来た。そこは外の喧騒から隔てられており、ひっそりとしている。
安宿媛(あすかべひめ)、中に入るわよ」
 三千代は声をかけ、そっと板戸を開けて部屋の中へと入った。
 中では、安宿媛と呼ばれた少女が机に向かい、筆を熱心に動かしている。
 彼女は少しゆったりとした唐風の衣をまとっている。黒く長い髪の双髻(そうけい)を、左右で束ねて丸い形に結っており、香油をかすかになじませているのか、髪にほのかな艶があった。
 机の横には、書き上げた紙が重ねて置かれている。筆跡は若いながらもしっかりしており、細やかな文字だった。
「……あら、その声はお母さまですね。どうかなさいましたか?」
 背を向けたまま筆を止めずに、安宿媛は穏やかな声で返した。
 三千代はその様子を見て、小さく息をつき「あなたは筆を持つと周りが見えなくなるわね」と苦笑した。
 安宿媛は十四歳。幼い頃から文に親しみ、近頃は仏典の書き写しに取り組んでいた。ここ数年は書写に心を寄せ、いまでは“能筆”と評されるほどになっている。
「ごめんなさい、お母さま。筆を執ると、つい夢中になってしまって……。でも経典を書き写していると、御仏に心が通じるような気がするんです」
「ええ、その気持ちは尊いわ。でも、書ばかりしていては体を壊してしまうかもしれないわよ」
 三千代は娘の信仰心を誇りに思いながらも、その熱心さが少し気にかかっていた。
 安宿媛はふと微笑むと、静かに筆を置いて言った。
「今朝、夢を見たのです。光に包まれたお方が現れて……太子様だと思いました。それで、太子様のために経典を書こうと思ったのです」
「まぁ、それは素晴らしい夢ね。でもあなた氷高皇女(ひだかのひめみこ)元正天皇(げんしょうてんのう)の即位に立ち会うのでしょう。支度はできているの?」
 元明天皇(げんめいてんのう)が皇位を娘の氷高皇女に譲るという知らせは、すでに京の内外に広まっていた。新しい天皇、すなわち元正天皇の即位式は、朝廷の威信を示す大切な儀式であり、藤原家にとっても重要なものだった。
 安宿媛は正式な参列者ではなかったが、父が大臣であり、母もかつて宮中に仕えた身であったため、特別に参列を許されていたのだ。
「ごめんなさい、お母さま。まだ支度は整っていませんが、当日までには必ず整えます」
「あなたが自分で用意したいと言うから任せているのよ。いいこと、しっかり準備しておきなさいね」
「はい。お母さまのように手際よくはできませんが、ちゃんと整えておきます」
 三千代は、どこか儚げな笑みを浮かべ、そっと肩をすくめて部屋を出ていった。