平城京の導き ~古都の物語~

 安宿媛は、首皇子から聞いていた講堂へと、駆け足で向かった。
 一段高い基壇(きだん)の上に、鮮やかな朱に塗られた柱が並び、屋根には瓦葺きが端正に敷かれている。
 安宿媛がその講堂を凝視していると、ちょうど講義が終わったようで、「ぎい」とひどく重たげな音を立てて板唐戸(いたからど)が開き、中から学生たちが一斉に出てきた。その人の流れの中に、彼女は真備の姿を見つける。
「あ、真備殿!」
 安宿媛は、思わず大きな声で彼の名を呼んだ。
「え、あなたは安宿媛、どうしてこんな所に?」
 真備は安宿媛の姿を見つけるなり、ほかの学生の間を掻いくぐり、慌てて彼女のもとへと駆け寄った。
「今日はあなたに用があって、こちらへ伺いました。けれども、あなたが大学寮のどこにおられるのか分からず……お会いできて本当に良かったです」
「そうでしたか。ここでは人目もありますし、少し場所を移しましょう。この先に小さな休憩所があります。そちらの方が、落ち着いてお話しできると思いますよ」
 真備は、安宿媛の突然の訪れにもかかわらず、嫌なそぶりも見せずに、穏やかな口調でそう答えた。それは、彼女の今の心境を気遣っての、彼なりの心遣いだったのだろう。
「はい、お願いいたします」
 安宿媛は、そんな彼の心遣いに深く感謝の念を抱いた。きっと周囲の学生たちからも信頼を寄せられているのだろう。
 彼に案内されてやってきた休憩所は、平坦な草地の上に、簡素な木の柱と屋根だけが設けられた東屋(あずまや)で、その周囲には椅子代わりになりそうな大きな岩がいくつか置かれていた。傍らには、一本のやや大きめの木が植えられている。
「私は日頃、この場所で書物を読んだり、一人で考えごとをしたい時などに使っています」
(まあ、ここは本当に素敵な場所ね)
 この場所は日当たりがよく、とても心地がよさそうだ。日頃から難しい書物に読み耽っている学生たちにとっては、きっと良い憩いの場になっているに違いない。
「では、そこの岩に腰かけましょう」
 彼らは、二人がちょうど並んで座れる岩に、ゆっくりと腰を下ろした。岩の冷たさと硬さが、衣を通して、じんわりと伝わってくる。
「今日はわりと、控えめな服装なのですね」
「そ、それは……私が藤原不比等の娘だと知られたら、少々面倒かなと思ったの。それで、少し身分の低めの人を装ってみたのです」
 それを聞いた真備は、少しおかしかったのか、小さくくすくすと笑ってみせる。
「なるほど、なかなか面白い発想ですね。不比等殿の娘であるあなたが、このような場所に一人で来られたとなれば、確かに皆が驚きそうだ」
 真備はまだ微笑みを含んでいるようだったが、何とかそれを抑え、彼女の話に耳を傾けることにした。
 安宿媛は、今日ここにやって来た理由を彼に説明し、手にしていた包みの中から例の経典を取り出して、彼に差し出した。
「これはまた、随分と難しそうな経典ですね」
「本当にそうなの。それで困ってしまって、あなたなら読めないかと思って」
「私はここで、儒教や算道(さんどう)などを主に学んでいます。仏教にはそれほど詳しくありませんが、まぁ、何とか読むくらいはできそうですね」
 それから二人は、真備の説明を受けながら、共に経典を読み解いていくことにした。
 彼は経典の内容を、一つひとつ丁寧に彼女に伝えていく。
 安宿媛は、隣で経典を見ながら、その説明に素直に頷いていた。
「真備殿は、本当にすごいのですね……。内容がどんどん理解できるようになります」
「ただ、経典の奥深い意味までは、私にも難しいところがあります。けれども安宿媛は、日頃から仏教の教えを学ばれているようで、その点は私のほうこそ尊敬しております」
「まぁ、尊敬だなんて。私なんて、まだほんの少し興味があるだけですから」
「そんなことはございません。ご自身のやりたいことに真っすぐ向き合えるあなたが、本当に羨ましいです」
「え? 真備殿は、そうではないのですか?」
 安宿媛にそう言われて、真備は少し曖昧な表情を浮かべ、言葉に詰まらせた。
「もちろん、ここで多くのことを学んで、いずれは官人になりたいと思っています。ですが、私にはもうひとつ夢があるのです」
「え、夢ですか?一体どんな?」
「実は、いつか唐へ行ってみたいのです」
「唐ということは、もしかして遣唐使に?」
 遣唐使とは、日本から唐へ派遣された使節団のことである。
 彼らは大陸に渡り、さまざまな知識や制度、文化を学び、国へと持ち帰ってくるのだ。だが、その道のりは決して容易なものではない。航海の途上には、幾多の危険が待ち受けている。
 それでもなお、彼は海の彼方を目指そうとしているのだろう。彼のその言葉を語る表情からは、揺るぎない意志の強さが感じられた。
(真備殿が、まさか遣唐使を志しておられるなんて……)
 安宿媛は、そんな彼の真っすぐな横顔を見つめながら、胸の奥にそっと小さなざわめきを覚えた。