平城京の導き ~古都の物語~

  寮の中では、長机の並ぶ学舎で、すでに数人の学生たちが、経書を広げて静かに筆を走らせていた。それから彼女は、大学寮の中を興味深そうに眺めながら、一つひとつの建物を見て回り、下道真備の姿を探すことにした。
 敷地内の道には砂と小石が整然と敷き詰められ、そよぐ風に揺れた樹々の葉が、さらさらと擦れ合う音を立てている。
 一方、講堂の中では、数十人の学生が机を並べ、博士の声に合わせて経書を朗々と読み上げていた。彼らの声が重なり合い、堂内には張りつめた響きが広がっていた。
(大学寮は家から近いけれど、中に入るのは初めてだわ)
 さらに歩みを進めると、中央には大きな講堂があり、そこでは博士たちが講義や試験を行っている。
 安宿媛にとって、目に映るものすべてが新鮮であった。彼女はたびたび足を止め、目を輝かせながら寮内を見回していた。
 だが若い娘の姿は、この場に不釣り合いで、通りすがる学生たちの視線がどこか訝しげに向けられる。
(さあ、早く真備殿を探さないと)
 とはいえ、この大学寮には四百人を超える学生が在籍している。その中から彼一人を見つけ出すのは、そう容易なことではなかった。
 彼女は寮内を行き交う学生の数名に声を掛けてみた。だが、彼らは下道真備の名は知ってはいるものの、今どこにいるのかまでは分からないと言う。
次第に不安が広がっていき、今日の探索を諦めようかという思いさえ、よぎってくる。
(どうしよう。今日は運よく大学寮の中に入れたけれど、次も同じようにできるとは限らない)
 彼女の場合、無断で自分の部屋を抜け出して来ていることもあり、あまり長居するのは良くないだろう。
「あともう少しだけ探してみよう。それでも見つからなければ、そのときは諦めるしかないわ」
 そうつぶやき、気を取り直して歩みを進めたその瞬間、道の曲がり角で、思いがけない人物に出くわす。
(ど、どうして彼がここに?)
 そこに立っていたのは、ほかならぬ首皇子(おびとのみこ)であった。
 なぜ彼がこのような場所にいるのか、安宿媛にはまるで見当もつかない。
 突然の皇子の登場に、先日の出来事がふと脳裏に蘇り、安宿媛は思わず立ち尽くした。
「安宿媛、君がどうしてここに?」
 一方の首皇子も、思いがけない場所で彼女と出会い、不思議そうに首を傾げた。
(駄目、今は早く真備殿を探さないと)
 安宿媛はハッとして我に返り、足早にその場を離れようとした。
「わ、私は……急いでおりますから!」
 思わずその場から逃げ出そうとしたが、不意に首皇子の手が伸び、腕を掴まれてしまう。
「俺の問いに答えてくれ。どうして君がここにいるんだ?」
「わ、私、人を探していて……」
「人を探している? 一体、誰を?」
 首皇子に問い詰められ、彼女は思わず動揺し、つい口を滑らせてしまった。
「下道真備という名の、学生です」
「下道真備? ああ、たしか先ほど講堂の方で見かけた気がするよ」
「えっ、本当ですか!」
安宿媛はそれを聞くなり、思わず皇子のもとへ歩み寄った。彼からそんな話を聞けるとは、思いもしなかったのだ。
 だが、不意に彼女が間近に来たため、首皇子は驚いて手を離した。
「ちょうど今ごろ、儒教の講義が終わるはずだ。急げば間に合うだろう」
(よかった、これで彼に会える)
 その言葉を聞き、安宿媛の心はふと弾み、口元に笑みが浮かんだ。
「良かった、もう駄目かと思っていたので」
「そんなに会えてうれしい相手なのか? その人物に何か用事でもあるの?」
「いえ、そういうわけではないんです」
 安宿媛は思わず俯き、左右に首を振ってみせる。
「では、どうして下道真備を?」
 問われた瞬間、彼女は少し考えた。自分でもはっきりとは分からない。ただ今は、彼にどうしても会いたいと思ったのだ。
 彼女は、抑えきれない思いを抱えたまま、声を絞り出した。
「どうしても……お会いしたくて」
 その瞬間、首皇子の瞳がわずかに揺れる。
「……え?」
 彼は体を硬直させ、思わず目を見開いた。
「皇子、ごめんなさい。私、行きます!」
 そう言い残すと、安宿媛は首皇子の横を通って、その場を駆け出していく。走る拍子に髪が軽く揺れ、衣の裾は風に引かれた。道端の砂利を踏みながら、彼女は講堂の方へと向かっていった。
 その背を見送る皇子は、ただ立ち尽くした。指先には、彼女の手の温もりがまだわずかに残っている。
「いったい、どういうことなんだ」
その場で、皇子はしばらく動けずにいた。