平城京の導き ~古都の物語~

大学寮は、平城宮の南方に位置していた。
 ここは、藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男であり、安宿媛の異母兄にあたる藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が、長官である大学頭(だいがくのかみ)を務めている場所である。
 大学寮の正門である南門は、朱塗りの太い柱に瓦葺きの屋根を載せ、空へと高くそびえていた。門の左右には築地塀(ついじべい)が連なり、その白壁の向こうには、講堂や学生舎(がくしゃ)の棟が端然と並んでいる。
 真昼の光が燦燦と照らされて、門の金具が光り、その大きさに思わず目を引かれるほどだった。
 安宿媛は、大学寮の南門の前にやってくる。門の前では、学生や官人らしき人々が忙しげに行き交っている。
 彼女は、彼らの邪魔にならぬよう、門の脇に立ち、そっと中の様子をのぞき込んだ。
(やっぱり、そう簡単には見つからないわね)
 彼女は小さく息をつきながら、門の向こうに視線を凝らした。今は昼前で、往来する人の影もまだ多い。それでも、彼が現れる可能性は、残ってないだろうか。
「彼は、まだ寮の中で勉強しているのかしら」
 彼女はどうしてよいか分からず、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 このまま門の前に長く立っていれば、若い娘の身では、いずれ怪しまれてしまうかもしれない。
(やはりここは、誰かに頼んで言伝てをお願いすべきかしら)
 彼女が思いを巡らせていたちょうどそのとき、一人の大学寮の者が、彼女に声を掛けてきた。
「このような所で、どなたかをお探しか」
 相手は四十、五十歳ほどの男性で、どうやらこの大学寮の関係者らしい。深紫の袍をきちんと着こなし、年季を感じさせる穏やかな顔つきをしていた。
「ええと……私は、その、下道真備という方を探しておりまして」
「ほう、下道真備をお探しか。そなたは彼の知り合いか?」
「いえ、よく知っているわけではありませんが、以前に一度だけお会いしたことがあります。今日は彼に、少し用があって参りました」
「彼は確かにここの学生だ。私は大学博士(だいがくのはかせ)を務めておるが、ここには四百人ほどの学生がいてな。今彼がどこにおるのか、私にも正直分からぬ」
「まぁ、大学博士の方でいらしたのですね。失礼をいたしました。やはり、ここでお待ちするしかなさそうですね」
 安宿媛は、少し落胆して、そっと肩を落とした。先日、彼に会ったときに、どうすれば次にまた会えるのか、そのことをあの場で聞いておけばよかった。そう思うと、思わずため息がこぼれる。
 大学博士の男性は、そんな安宿媛の様子を見て、少々気の毒に思ったようで、彼女に意外な提案を持ちかけた。
「では、大学寮の中に入られて、ご自身で探してみてはいかがですかな」
「えっ、私がですか?」 
「本来なら、私がご一緒できればよいのだが。あいにく私も少々用があるので。大学寮の中へ入る許可は、私が出しておきましょう」
「本当に、よろしいのですか? それは大変ありがたいです」
「ええ、受付の者に私の名を伝えれば、通してもらえるはずだ」
(なんて親切な方なのでしょう。やはり大学寮に勤めているだけあって、御心が広いのだわ)
 安宿媛は、その大学博の男性に対して、深い感謝の思いを抱いた。己の身分を隠していることが、本当に申し訳なく思われてならない。
 こうして彼女は、その大学博士の男性の助けを得て、ようやく大学寮の門をくぐることができた。

 安宿媛は、まず大学博士から教えられた学舎へと向かった。そこは経書を学ぶ学生たちの集う場であった。彼女の姿を見た数人の官人たちは、突然現れた若い娘に思わず視線を向ける。
(まあ、私のような娘がやってきたら、当然そんな反応になるわよね……)
 安宿媛は思わず愛想笑いを浮かべ、少し緊張しながら事情を説明した。すると年配の官人が、細長い木札を差し出してきた。
「では、この木札に名籍をお書きなさい」
 大学寮では、訪問者や学生の名をこうした木札に記し、出入りを記録している。
 安宿媛は、官人に言われるままに筆を取った。だが、ここで自分が藤原不比等の娘だと名乗れば、たちまち寮中の人々に知られてしまい、余計な噂が立ってしまうかもしれない。
(これは……少しまずいかもしれないわね)
 そこで彼女は、母方の一族である県犬養氏の縁者ということにして、木札へ名を記する。
(まあ、母も県犬養氏の出だから、それなりの家柄ではあるのだけれど……)
こうして安宿媛は、無事に学生寮に入る許可を得た。
 彼女はほっと胸を撫で下ろすと、軽やかな足取りで寮の中へと歩みを進めた。