それから数刻のち――。
首皇子は藤原不比等親子と別れ、東院へと戻っていた。
そして今はちょうど夕暮れのころである。
彼はふと、自らの御座のかたわらに身を預け、静かに外の空を眺めていた。すでにあたりは薄闇に包まれ、庭の池面に月の光が映って、ほのかに揺れている。
「ふぅ、とりあえず式も無事に終わって、何よりだな」
今日は朝から、本当に緊張の続く一日だった。
ようやくその張り詰めた気持ちもほどけ、今はただ、ひとり物思いにふけっていた。
そして、今は舎人の者から差し出された夕餉を終え、ふと今日の出来事を思い返していた。
「お祖父さまから、あそこまで粘られるとは思ってもみなかったな」
首皇子が思わず苦笑みを浮かべてつぶやいたその瞬間、ふと安宿媛の顔が脳裏に浮かんだ。あのとき見せた彼女の動揺した表情が、今もなお彼の記憶に残っている。
(これでいいんだ。これが、きっと互いにとっていちばん良い形なのだから)
そう自らに言い聞かせたその時、几帳の向こうから、ふと声が響いた。静まり返った部屋に、その声だけがはっきりと届く。
「首皇子、少し宜しいでしょうか?」
「あぁ、宇田麻呂か。どうした?」
「はい、こちら、天皇よりの伝言にございます」
「叔母上から?」
「はい。今後の政に関する取り決めごとの文です。不比等様をはじめ、皇族や重臣方にも同じものが渡されるとのことです」
「ふふ......叔母上は本当に行動が早いね」
彼は小さく笑みをこぼしながら、宇田麻呂から文を受け取る。
ひと通り目を通したものの、ある箇所でふと、その目がとまった。
「へぇ……大学寮でも問題が起きているのか」
「はい。最近、大学寮の学生らの間で、まだ十分な修業もないうちに任官の推薦を求めてくる者がいるとのこと。学問よりも地位を急ぐ者が増えているようです」
「なるほどね。大学寮は俺もまだ行ったことがない。一度見てみるのもいいかもしれないな」
日頃、東院の外へ出ることの少ない首皇子にとって、それはどこか心惹かれる出来事のように思えた。
「首皇子が、大学寮へですか?」
「そうだ。君はこのあと叔母上のもとへ戻るのだろう?ついでに、俺が大学寮を視察したいと伝えておいてくれるか?」
「かしこまりました。その旨、必ずお伝えいたします。では、私はこれで失礼いたします」
宇田麻呂は深く頭を下げると、部屋を後にした。
彼の足音が部屋の外へ遠ざかると、あたりは静まりかえり、虫の声だけが、そこに聞こえていた。
(大学寮――あそこには、貴族の子弟だけでなく、地方豪族の出ながらも優秀な者もいると聞く。一度、自らの目でその様子を見てみるのも、悪くない)
首皇子は思わず両手を高く上げ、ひとつ大きく背を伸ばした。 その折、腕に巻きつけていた紐が、するりとほどけて床へと落ちる。これは、ただの紐ではなく、細く布を縫い合わせて作られた布紐であった。彼はこれを常日頃より、腕や腰に巻いて用いていた。
「まったく、子どものころに貰ったものを、今もこうして手元に残しているなんて、俺はどうかしているのかもしれない」
首皇子はその紐を拾い上げ、几帳の脇にある机に置いた。月の光が、その布の上にそっと落ちてくる。
やがて再び、庭の彼方へと目を向けた。すると、夜風が身にかかり、その冷たさが肌へと伝わってくる。
(大学寮の大学頭は、今は武智麻呂の叔父上だったな……。以前から学びを勧められていたし、この機に話を通してみるか)
こうして、慌ただしく過ぎた一日が、ようやく穏やかな終わりを迎えようとしていた。
首皇子は藤原不比等親子と別れ、東院へと戻っていた。
そして今はちょうど夕暮れのころである。
彼はふと、自らの御座のかたわらに身を預け、静かに外の空を眺めていた。すでにあたりは薄闇に包まれ、庭の池面に月の光が映って、ほのかに揺れている。
「ふぅ、とりあえず式も無事に終わって、何よりだな」
今日は朝から、本当に緊張の続く一日だった。
ようやくその張り詰めた気持ちもほどけ、今はただ、ひとり物思いにふけっていた。
そして、今は舎人の者から差し出された夕餉を終え、ふと今日の出来事を思い返していた。
「お祖父さまから、あそこまで粘られるとは思ってもみなかったな」
首皇子が思わず苦笑みを浮かべてつぶやいたその瞬間、ふと安宿媛の顔が脳裏に浮かんだ。あのとき見せた彼女の動揺した表情が、今もなお彼の記憶に残っている。
(これでいいんだ。これが、きっと互いにとっていちばん良い形なのだから)
そう自らに言い聞かせたその時、几帳の向こうから、ふと声が響いた。静まり返った部屋に、その声だけがはっきりと届く。
「首皇子、少し宜しいでしょうか?」
「あぁ、宇田麻呂か。どうした?」
「はい、こちら、天皇よりの伝言にございます」
「叔母上から?」
「はい。今後の政に関する取り決めごとの文です。不比等様をはじめ、皇族や重臣方にも同じものが渡されるとのことです」
「ふふ......叔母上は本当に行動が早いね」
彼は小さく笑みをこぼしながら、宇田麻呂から文を受け取る。
ひと通り目を通したものの、ある箇所でふと、その目がとまった。
「へぇ……大学寮でも問題が起きているのか」
「はい。最近、大学寮の学生らの間で、まだ十分な修業もないうちに任官の推薦を求めてくる者がいるとのこと。学問よりも地位を急ぐ者が増えているようです」
「なるほどね。大学寮は俺もまだ行ったことがない。一度見てみるのもいいかもしれないな」
日頃、東院の外へ出ることの少ない首皇子にとって、それはどこか心惹かれる出来事のように思えた。
「首皇子が、大学寮へですか?」
「そうだ。君はこのあと叔母上のもとへ戻るのだろう?ついでに、俺が大学寮を視察したいと伝えておいてくれるか?」
「かしこまりました。その旨、必ずお伝えいたします。では、私はこれで失礼いたします」
宇田麻呂は深く頭を下げると、部屋を後にした。
彼の足音が部屋の外へ遠ざかると、あたりは静まりかえり、虫の声だけが、そこに聞こえていた。
(大学寮――あそこには、貴族の子弟だけでなく、地方豪族の出ながらも優秀な者もいると聞く。一度、自らの目でその様子を見てみるのも、悪くない)
首皇子は思わず両手を高く上げ、ひとつ大きく背を伸ばした。 その折、腕に巻きつけていた紐が、するりとほどけて床へと落ちる。これは、ただの紐ではなく、細く布を縫い合わせて作られた布紐であった。彼はこれを常日頃より、腕や腰に巻いて用いていた。
「まったく、子どものころに貰ったものを、今もこうして手元に残しているなんて、俺はどうかしているのかもしれない」
首皇子はその紐を拾い上げ、几帳の脇にある机に置いた。月の光が、その布の上にそっと落ちてくる。
やがて再び、庭の彼方へと目を向けた。すると、夜風が身にかかり、その冷たさが肌へと伝わってくる。
(大学寮の大学頭は、今は武智麻呂の叔父上だったな……。以前から学びを勧められていたし、この機に話を通してみるか)
こうして、慌ただしく過ぎた一日が、ようやく穏やかな終わりを迎えようとしていた。



