「最近は、このあたりを歩くこともなかったから、久しぶりな気がするわ」
礼服をまとった彼女が、ひとりで歩き回るのも物騒なので、歩くのは平城宮の外堀のあたりまでにとどめていた。それでも、外の空気に肌を触れているうちに、彼女の気分は幾分か落ち着いてきた。
東の空には三笠の山が見え、袖をかすめた風に、安宿媛は思わず息をつく。それまで張りつめていた気持ちが、ほんの少しだけほどけた。
そして、ちょうど曲がり角に差しかかった、その時である。
「きゃあっ!」
「わっ!」
横から現れた人物と、彼女は思いきりぶつかってしまった。
その拍子に、彼が手にしていた書物が、がばさばさと音を立てて地面に散らばる。思わず息をのむほどの量で、ここまで運んできた苦労が想像された。
(まあ、私ったら、なんということを……)
「ご、ごめんなさい。私がうっかりしていて」
安宿媛は慌てて地面にしゃがみ込み、落ちてしまった書物を拾い集めた。礼服を着ている身ではあったが、相手の大事な書物を汚したくはない一心で、自分の衣が汚れるのもかまわずに手を伸ばす。
「あ、あなたの礼服が!そんなことまでなさらなくても……」
相手の男も慌てて書物を拾い上げた。
そのとき安宿媛の目に入ったのは、二十歳そこそこの、まだ若さの残る青年だった。表情は落ち着いていて、こちらを見る目も真っ直ぐだった。
安宿媛は拾い集めた書物を手に取り、それをそっと青年へ差し出した。
「もしかして、あなたの大切な書物なのかと思いまして……本当に申し訳ありません」
「いえ、とんでもないです。お見受けするに、とても高貴なお方なのでしょう。そんな方にぶつかってしまい、こちらこそ失礼いたしました」
「お気遣いなく。私は、藤原不比等の娘、安宿媛と申します」
「えっ、あの不比等殿の……!あ、私は下道真備と申します。生まれは吉備の国で、父が武官として奈良の地に仕えておりまして、その折に、私も幼い頃から都へ参りました」
「まぁ、吉備の方なのですね。それに、そのお手元の書物、儒教のものが多いようですが、もしかして大学寮の方ですか?」
「ええ、そうです」
「まぁ、あなたのような方が大学寮に入られるなんて、よほど優れた方なのでしょうね」
「はぁ、何分、地方の豪族の出でして」
通常、大学寮に入ることが許されるのは、五位以上の貴族の子弟に限られている。そのことを思えば、彼の身分での入学は、決して容易ではなかったはずだ。それほどまでに、彼は秀でた才を備えていたのだろう。その謙虚な口ぶりには、確かな努力の跡が垣間見えるようだった。
「こんな偶然とはいえ、あなたのような方と出会えて、とても嬉しく思います」
安宿媛はそう言って、にこやかに微笑んだ。つい先ほどまで涙に沈んでいたというのに、彼と語らううちに、その気持ちが少しずつほぐれていくのを感じていた。
「いえ、本来ならば、私のような者がお話しするのも畏れ多いことです。これ以上お時間を頂くのも恐縮ですので、私はこれで失礼いたします」
「あ、そうですね。こちらこそ、お引き留めしてしまってごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそ、私のような者にお声を掛けてくださり、まことに光栄です。もしまたお会いすることがありましたら、あなたさえよろしければ、どうかお声を掛けてください」
「ええ、その時はぜひ、そうさせていただきますね」
それから二人は別れの挨拶を交わすと、それぞれの道へと歩みを進めていった。
(まさか、こんな素敵な方に出会えるなんて。少し、心の痛みが和らいだ気がする)
こうして安宿媛は、それまでの沈んだ気持ちを抑え、自邸へと戻ることにした。
礼服をまとった彼女が、ひとりで歩き回るのも物騒なので、歩くのは平城宮の外堀のあたりまでにとどめていた。それでも、外の空気に肌を触れているうちに、彼女の気分は幾分か落ち着いてきた。
東の空には三笠の山が見え、袖をかすめた風に、安宿媛は思わず息をつく。それまで張りつめていた気持ちが、ほんの少しだけほどけた。
そして、ちょうど曲がり角に差しかかった、その時である。
「きゃあっ!」
「わっ!」
横から現れた人物と、彼女は思いきりぶつかってしまった。
その拍子に、彼が手にしていた書物が、がばさばさと音を立てて地面に散らばる。思わず息をのむほどの量で、ここまで運んできた苦労が想像された。
(まあ、私ったら、なんということを……)
「ご、ごめんなさい。私がうっかりしていて」
安宿媛は慌てて地面にしゃがみ込み、落ちてしまった書物を拾い集めた。礼服を着ている身ではあったが、相手の大事な書物を汚したくはない一心で、自分の衣が汚れるのもかまわずに手を伸ばす。
「あ、あなたの礼服が!そんなことまでなさらなくても……」
相手の男も慌てて書物を拾い上げた。
そのとき安宿媛の目に入ったのは、二十歳そこそこの、まだ若さの残る青年だった。表情は落ち着いていて、こちらを見る目も真っ直ぐだった。
安宿媛は拾い集めた書物を手に取り、それをそっと青年へ差し出した。
「もしかして、あなたの大切な書物なのかと思いまして……本当に申し訳ありません」
「いえ、とんでもないです。お見受けするに、とても高貴なお方なのでしょう。そんな方にぶつかってしまい、こちらこそ失礼いたしました」
「お気遣いなく。私は、藤原不比等の娘、安宿媛と申します」
「えっ、あの不比等殿の……!あ、私は下道真備と申します。生まれは吉備の国で、父が武官として奈良の地に仕えておりまして、その折に、私も幼い頃から都へ参りました」
「まぁ、吉備の方なのですね。それに、そのお手元の書物、儒教のものが多いようですが、もしかして大学寮の方ですか?」
「ええ、そうです」
「まぁ、あなたのような方が大学寮に入られるなんて、よほど優れた方なのでしょうね」
「はぁ、何分、地方の豪族の出でして」
通常、大学寮に入ることが許されるのは、五位以上の貴族の子弟に限られている。そのことを思えば、彼の身分での入学は、決して容易ではなかったはずだ。それほどまでに、彼は秀でた才を備えていたのだろう。その謙虚な口ぶりには、確かな努力の跡が垣間見えるようだった。
「こんな偶然とはいえ、あなたのような方と出会えて、とても嬉しく思います」
安宿媛はそう言って、にこやかに微笑んだ。つい先ほどまで涙に沈んでいたというのに、彼と語らううちに、その気持ちが少しずつほぐれていくのを感じていた。
「いえ、本来ならば、私のような者がお話しするのも畏れ多いことです。これ以上お時間を頂くのも恐縮ですので、私はこれで失礼いたします」
「あ、そうですね。こちらこそ、お引き留めしてしまってごめんなさい」
「いえいえ、こちらこそ、私のような者にお声を掛けてくださり、まことに光栄です。もしまたお会いすることがありましたら、あなたさえよろしければ、どうかお声を掛けてください」
「ええ、その時はぜひ、そうさせていただきますね」
それから二人は別れの挨拶を交わすと、それぞれの道へと歩みを進めていった。
(まさか、こんな素敵な方に出会えるなんて。少し、心の痛みが和らいだ気がする)
こうして安宿媛は、それまでの沈んだ気持ちを抑え、自邸へと戻ることにした。



