時は、平城京遷都が行われるよりも数年前に遡る。その年の夏の終わり、文武天皇は二十五歳という若さで、悲しくも崩御した。
そして文武天皇の息子で、まだ七歳の首皇子は、父の崩御をきっかけに、部屋に閉じこもるようになった。
また、首皇子の母である藤原宮子も、皇子を産んだ後に心を病み、今も会えないままだ。
そんな皇子の様子を見かねたのが、藤原不比等の娘である安宿媛だった。藤原宮子も同じく不比等の娘であり、安宿媛は首皇子にとって伯母にあたる。
だが二人は偶然にも同じ年に生まれ、首皇子の養育は祖父・藤原不比等と、その妻である三千代が担っていた。それもあって二人は、同じ敷地内で、幼い頃から共に暮らしてきた仲である。
安宿媛はさっそく部屋を飛び出すと、首皇子のもとに行き、外へと誘うべく、唐突に彼に声をかけた。
「ねぇ、首。ススキの原がとても綺麗よ。外に一緒に見に行きましょうよ!」
安宿媛は首皇子の腕の袖を掴んでそう話すと、彼を有無を言わさず床から立ち上がらせた。そして相手の手を引くなりして、部屋を飛び出し、そのまま意気揚々としながら、外へと出かけていった。
二人がススキの原にやってくると、安宿媛は突然に「さあ、このまま走るわよ」と言って、足取りが少々不安定な草地の上を、首皇子と一緒に走り始めた。
だが彼らが一歩前に進むだけで、草地からは飛蝗が勢いよく飛び出してきて、頭上にも蜻蛉が何匹も飛び回っている。
それでも爽籟とそよ風に揺れるススキから聞こえる音は、不思議と心地よい。
それでいて、彼らの背より高く伸びたススキは、陽の光を受けて、黄金色に揺れて見えた。
「ねぇ、安宿媛、いつまで走るんだよ?」
「まだよ。首、もっと走るの」
こうして彼らは、結局は体力の限界まで、この広大なススキの原を、ひたすらに走り続け、ついには力尽きて、その場にへなへなと座り込んでしまった。
それから二人して『ぜーはーぜーはー』と大きく息を切らしてしまう。
「はぁー、本当に疲れたけど気持ちいいね」
「本当に君は......しかも、僕まで巻き込んで」
「だって、首がちっとも部屋から出てこないのが悪いんじゃない?それに私だって一人じゃ寂しいわ」
「そ、そんな、僕だって色々考える事があるんだよ」
首皇子は安宿媛にそんな風に言われてしまい、少々癇に障ったようで、顔を横に背けてしまう。
「まぁ、首が考え事なんてしていたの。それで結局何か分かったわけ?」
「いや、それは......ちょうど考えてる所に君がやってきたから、まだ分かんないよ!」
安宿媛は何も言わず、そっと彼の手に触れた。
「もう、僕は君が思ってるほど弱くなんて――」
だが首皇子は、言葉を詰まらせ、そのまま彼女の前で、思わずむせび泣いてしまう。
「首は、すぐ弱気になるし、ちょっと迷いすぎるところもあるけど、それでも負けたりしないわ!」
「父、父さま~僕をおいていかないで~!!」
「お、首、泣かないでよ~」
安宿媛もつられて、ふと涙がにじみ、結局最後は二人してその場でわんわんと大泣きしてしまった。
周りの優しい草木の風音とは裏腹に、二人の泣き声はその場で大きくこだまし、辺りに甲高く鳴り響いていった。
その後、どれほどの時間がたったのか、ひどく泣き疲れた二人は、互いにそっと寄り添っていた。そして特に何をする訳でもなく、周囲のススキの原の景色をただぼんやりと眺めていた。
「ねぇ、首は、これからも私達の所にいてくれるの?」
「そうだね、まだ当分はそうなんじゃない?」
「そっか、じゃあ首とはこれからも会えるね」
「まぁ、当分は不比等のお祖父さま達に、甘える感じなんだと思うよ」
「そっか、それなら」
「え、安宿媛?」
安宿媛は突然に、首皇子の目を真っ直ぐ見つめた。相手が何とも不思議そうな表情をしてはいるが、彼女は両手を広げて何の躊躇いもなく、自身の思いを彼に伝える。
「私、これからもずっ~と首のそばにいるから。だから首は全然一人じゃないし、寂しくなったら私やお父さま......首にとってはお祖父さまになるけど、いっぱい頼ってよね」
さらに彼女は両手の袖を掴んだ状態で、大きく上下に振って見せては、何とも大げさな態度で、彼に一生懸命、言い聞かせるようにする。
「安宿媛は、本当に一緒にいると元気になれるね」
「だから約束してちょうだい。これからもずっと一緒にいてくれるって!」
「うん、もちろんだよ。安宿媛は僕にとっても、とっても大事な女の子だからね」
それを聞いた安宿媛は、思わず首皇子にしがみつき、満面の笑みをこぼした。
だがこの時の二人は、この先にどんな未来が待ち受けているか、まだ知るよしもなかった。
朝廷の中では権力争いが表に出始め、次の天皇の運命を背負う首皇子も、さまざまな思惑に巻き込まれていくことになる。
そうした日々の中で、二人が言葉を交わす機会は次第に減り、やがて、かつて当たり前だった距離は失われていった。
さらに、彼らが十三歳になった時のことである。首皇子は立太子の儀を行い、皇太子として、東院へ移ることとなった。
そして安宿媛と首皇子の二人は、これを機に、完全に引き離されてしまった。
そして文武天皇の息子で、まだ七歳の首皇子は、父の崩御をきっかけに、部屋に閉じこもるようになった。
また、首皇子の母である藤原宮子も、皇子を産んだ後に心を病み、今も会えないままだ。
そんな皇子の様子を見かねたのが、藤原不比等の娘である安宿媛だった。藤原宮子も同じく不比等の娘であり、安宿媛は首皇子にとって伯母にあたる。
だが二人は偶然にも同じ年に生まれ、首皇子の養育は祖父・藤原不比等と、その妻である三千代が担っていた。それもあって二人は、同じ敷地内で、幼い頃から共に暮らしてきた仲である。
安宿媛はさっそく部屋を飛び出すと、首皇子のもとに行き、外へと誘うべく、唐突に彼に声をかけた。
「ねぇ、首。ススキの原がとても綺麗よ。外に一緒に見に行きましょうよ!」
安宿媛は首皇子の腕の袖を掴んでそう話すと、彼を有無を言わさず床から立ち上がらせた。そして相手の手を引くなりして、部屋を飛び出し、そのまま意気揚々としながら、外へと出かけていった。
二人がススキの原にやってくると、安宿媛は突然に「さあ、このまま走るわよ」と言って、足取りが少々不安定な草地の上を、首皇子と一緒に走り始めた。
だが彼らが一歩前に進むだけで、草地からは飛蝗が勢いよく飛び出してきて、頭上にも蜻蛉が何匹も飛び回っている。
それでも爽籟とそよ風に揺れるススキから聞こえる音は、不思議と心地よい。
それでいて、彼らの背より高く伸びたススキは、陽の光を受けて、黄金色に揺れて見えた。
「ねぇ、安宿媛、いつまで走るんだよ?」
「まだよ。首、もっと走るの」
こうして彼らは、結局は体力の限界まで、この広大なススキの原を、ひたすらに走り続け、ついには力尽きて、その場にへなへなと座り込んでしまった。
それから二人して『ぜーはーぜーはー』と大きく息を切らしてしまう。
「はぁー、本当に疲れたけど気持ちいいね」
「本当に君は......しかも、僕まで巻き込んで」
「だって、首がちっとも部屋から出てこないのが悪いんじゃない?それに私だって一人じゃ寂しいわ」
「そ、そんな、僕だって色々考える事があるんだよ」
首皇子は安宿媛にそんな風に言われてしまい、少々癇に障ったようで、顔を横に背けてしまう。
「まぁ、首が考え事なんてしていたの。それで結局何か分かったわけ?」
「いや、それは......ちょうど考えてる所に君がやってきたから、まだ分かんないよ!」
安宿媛は何も言わず、そっと彼の手に触れた。
「もう、僕は君が思ってるほど弱くなんて――」
だが首皇子は、言葉を詰まらせ、そのまま彼女の前で、思わずむせび泣いてしまう。
「首は、すぐ弱気になるし、ちょっと迷いすぎるところもあるけど、それでも負けたりしないわ!」
「父、父さま~僕をおいていかないで~!!」
「お、首、泣かないでよ~」
安宿媛もつられて、ふと涙がにじみ、結局最後は二人してその場でわんわんと大泣きしてしまった。
周りの優しい草木の風音とは裏腹に、二人の泣き声はその場で大きくこだまし、辺りに甲高く鳴り響いていった。
その後、どれほどの時間がたったのか、ひどく泣き疲れた二人は、互いにそっと寄り添っていた。そして特に何をする訳でもなく、周囲のススキの原の景色をただぼんやりと眺めていた。
「ねぇ、首は、これからも私達の所にいてくれるの?」
「そうだね、まだ当分はそうなんじゃない?」
「そっか、じゃあ首とはこれからも会えるね」
「まぁ、当分は不比等のお祖父さま達に、甘える感じなんだと思うよ」
「そっか、それなら」
「え、安宿媛?」
安宿媛は突然に、首皇子の目を真っ直ぐ見つめた。相手が何とも不思議そうな表情をしてはいるが、彼女は両手を広げて何の躊躇いもなく、自身の思いを彼に伝える。
「私、これからもずっ~と首のそばにいるから。だから首は全然一人じゃないし、寂しくなったら私やお父さま......首にとってはお祖父さまになるけど、いっぱい頼ってよね」
さらに彼女は両手の袖を掴んだ状態で、大きく上下に振って見せては、何とも大げさな態度で、彼に一生懸命、言い聞かせるようにする。
「安宿媛は、本当に一緒にいると元気になれるね」
「だから約束してちょうだい。これからもずっと一緒にいてくれるって!」
「うん、もちろんだよ。安宿媛は僕にとっても、とっても大事な女の子だからね」
それを聞いた安宿媛は、思わず首皇子にしがみつき、満面の笑みをこぼした。
だがこの時の二人は、この先にどんな未来が待ち受けているか、まだ知るよしもなかった。
朝廷の中では権力争いが表に出始め、次の天皇の運命を背負う首皇子も、さまざまな思惑に巻き込まれていくことになる。
そうした日々の中で、二人が言葉を交わす機会は次第に減り、やがて、かつて当たり前だった距離は失われていった。
さらに、彼らが十三歳になった時のことである。首皇子は立太子の儀を行い、皇太子として、東院へ移ることとなった。
そして安宿媛と首皇子の二人は、これを機に、完全に引き離されてしまった。



