その後、家には帰らなかった。
あの部屋に戻れば、きっと迷う。
弱くなる。
だから、足は自然と駅へ向かっていた。
気づけば電車に揺られ、降り立ったのはネオンが灯り始めた繁華街。
昼間の学校とはまるで別世界だった。
騒がしい音、笑い声、甘ったるい香水の匂い。
全部が混ざり合って、息が浅くなる。
(……ここ)
お姉ちゃんの日記に、何度も出てきた場所。
“れいくんと初めて会った繁華街”
その一文が、頭をよぎる。
胸の奥が、じくりと痛んだ。
『……っ』
無意識に、指先に力が入る。
視線を巡らせるけれど、探している人は見当たらない。
(そんな都合よく……)
「ねぇ、お姉さん」
不意に、背後から声がかかった。
同時に、腕を掴まれる。
「っ……」
振り返ると、知らない男が二人。
距離が近い。
酒の匂いが、鼻につく。
「ちょっと遊ぼうよ」
「暇でしょ?」
軽い口調。
でも、逃がす気はない力。
『……離してください』
できるだけ柔らかく。
でも拒絶ははっきりと。
そう思って言ったのに、指は緩まない。
(……来た)
頭のどこかで、冷静な自分が呟く。
お姉ちゃんと同じ状況。
同じ場所。
同じ、始まり。
『……やめて、ください』
声が、ほんの少し震えた。
そのとき——
「無理やりはダセェって、分かんねぇの?」
低く、静かな声が割り込んだ。
空気が変わる。
男たちの動きが止まる。
「……あ?」
振り返った先。
見覚えのある黒髪に、青いメッシュ。
「人のもん、勝手に触ってんじゃねぇよ」
綾藤玲雅だった。
昼間と同じ無表情。
でも、目だけが鋭いような気がする。
「は?誰だよ」
「関係ねぇだろ」
「関係あるから言ってんだよ」
一歩、近づく。
それだけで、空気が張り詰める。
男たちが、わずかに怯む。
「……チッ、めんどくせぇ」
「萎えた、行こうぜ」
掴まれていた手が、あっさり離れた。
そのまま二人は人混みに消えていく。
残された静けさ。
『……』
言葉が出ない。
ただ、視線だけが綾藤に向く。
綾藤は一度だけこちらを見て、小さく息を吐いた。
「……なにしてんだよ」
呆れたような声。
『……すみません』
反射的に、そう口にしていた。
「謝ることじゃねぇだろ」
『……でも、ご迷惑を……』
少しだけ視線を下げる。
——お姉ちゃんみたいに。
「……はあ」
綾藤が、わずかに眉を寄せた。
「ここ、遊びに来るとこじゃねぇぞ」
『……はい』
小さく頷く。
でも、足は動かない。
沈黙が落ちる。
ネオンの光だけが揺れている。
「……で」
綾藤が、わずかに首を傾けた。
「探してたのか」
心臓が、大きく跳ねる。
『……はい』
今度は、逃げなかった。
まっすぐ、見上げる。
『……ここに来れば、きっと会えると思って』
静かに言う。
確認するみたいに。
綾藤の目が、わずかに細められた。
『……あの』
一歩、踏み出す。
『……私も、そこに行きたいです』
ちゃんと、柔らかく。
でも、芯は消さない。
お姉ちゃんみたいに。
「……ほんとに来る気なのか」
低く呟く声。
『はい』
即答だった。
少しの迷いもない。
数秒の沈黙。
そのあと、綾藤はふっと息を吐いた。
「……バカだな」
でも、その声は心なしか少しだけやわらかい。
「ついて来い」
背を向ける。
迷いのない足取り。
『……どこに、』
そう聞くと、振り返りもせずに答えた。
「決まってんだろ」
短く。
「帝華のとこだ」
その背中を追いながら——
私はまだ、“私”じゃないまま。
お姉ちゃんの影をなぞるようにして、
その場所へ足を踏み入れた。


