……背中に、身体が触れるか触れないかの近い距離。

微かに香る、すっきりと爽やかな柑橘系の香り。

衣擦れ、浅く整った息遣いが、やけに鮮明に聞こえた。


──遥風。


棚に向かって、私を挟むように立つ彼は、そのままぐい、と木箱を棚の奥に押し込んだ。


「……危な」


久しぶりに聞いた、低く短い彼の声。

その懐かしい声のトーンに、きゅうっ、と痛いくらい心臓が締め付けられた。


──助けて、くれた?


胸の奥がじんわりと熱くなって、危うく涙腺が緩んでしまいそうになって。

そんな自分を無理矢理抑えるように、私はギュッと手のひらをを握った。


……落ち着け。


別に、この状況で助けるなんて至って普通のことだ。

大事な審査のメンバーが、怪我して使い物にならなくなったら困るから。ただそれだけ。


「ありがと」


小さな声で言って、彼から離れようとする。

これ以上一緒にいたら、勘違いが加速してしまいそうな気がしたから。

けれど、遥風はそんな私を前に──少し首を傾げた。


「それ何?」


──心臓が、一瞬音を止める。

ぎこちなく目を合わせると、遥風は至って『いつも通り』。

パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、喧嘩する前みたいに、自然に。

さら、と流れた長めの前髪の下、その瞳で真っ直ぐにこちらを捉えていた。


「あ、え、……これ?」


焦って、しどろもどろになりながらも手の中の赤い球体を差し出して見せる。

すると、遥風はちょっと目を丸くしてそれを見つめた後。


──ふっ、と、小さく笑った。


「なんだそれ」


最初に見つけたのがそれってマジかよ、と。

揶揄うように言い残して、その場を後にする遥風。



──え?


数秒間──脳内がフリーズして。



ぷつん、と。

私の中で、何かが切れる音がした。


じわ、と喉が焼けるように熱くなって、視界が滲む。


……なんで。

なんで急に、そんなに普通に接してくれるの?


私は──遥風のことを何も知らずに、お節介で傷つけて、突き放したのに。


どうして、そんなふうに笑ってくれるの?


もう、その声は聞けないって思ってた。
もう、私に向けてくれる優しさなんてないって、割り切れそうだったのに。


──錯覚、してしまう。


もう、私のことを許してくれたんじゃないかって。

もう一度、私と友達に戻ってくれるんじゃないか──なんて。

そんなひどく傲慢な期待が、いやでも浮かんできてしまう。



……やめよう。
これ以上は、危ない。



私は深く息を吸い込むと、瞳に滲んだ涙を袖で軽く拭った。

そして、遥風の行った方向とは逆方向に、足を運ぶ。

けれど──

背後に残る低い声の余韻と、近くで感じた体温は、しつこく胸に絡みついて離れようとしなかった。