相談室のきみと、秘密の時間

慧悟さんはその言葉には何も応えてくれなかった。

「中で話そう。大丈夫、時間は余裕があるし帰りはきちんとタクシー呼んであげる」

空港へと向かう慧悟さんの後ろを私はとぼとぼとついて行った。

慧悟さんは白いカシミアのコートを羽織っていたけど、荷物は小さいバッグだけだった。まさかすぐ離れることになるなんて気付けるわけない。

慧悟さんは空港の椅子に座った。一面ガラス張りの窓からはいくつもの飛行機が見えたけれど、その中に慧悟さんの乗る飛行機がないようにと願うしかできなかった。

「滑走路ってロードヒーティングで雪を溶かすんだよね。この景色も初めて見た時は驚いたな。東京にいた頃に比べてここはすごく居心地が良かった。彩葉と出会って、もっとここは居心地が良くなった。季節は移ろいで、彩葉はどんどん成長していった。でも、僕だけがいつまでも変われなかった」

「慧悟さんは最初から変わってましたよ。すごく変で、すごく面白くて、すごく優しくて、それで救われました。それだけじゃダメなんですか? 何が今も慧悟さんを追い詰めているんですか」

慧悟さんは微笑んだ。
いつもそうだ。なんで悲しい時に笑うの。泣けばいいのに。
泣いて、欲しかった。

「空っぽなんだ。虚ろなんだ。どんなにそれっぽく見せたって無駄なんだ。僕の時間は止まったまま。僕はどこか歪で欠けている。病気なんだ、精神の」

「え……? だから、お母さんが見たって」

「それは病院かな? 精神科に通っているからね」

「だとしても、慧悟さんは慧悟さんだよ。私にそうしてくれたように少しずつやっていけばいい」

私がそばに居るから。
そう伝えたいのに、慧悟さんは言わせてくれなかった。

「始めは憧れだった。有名なカウンセラーだった父親の背中を追いかけているつもりだった。でも繰り返し言われたんだよ。『お前には中身がない。つまらない人間だ。簡単な道ばかりを選ぶような卑怯者には素質がない。何をしても上手くいかない』と」

「そんなの……絶対本心からの言葉じゃない!! 」

「解ってる。父親の期待に応えられない人間なのが悪い」

「そうじゃなくて」

歯がゆい。気持ちをそのまま届けられたらいいのに。

「あの時も君の声が聞こえたんだよ。もう全部捨てるつもりであの夏の日、飛行機に乗った」

「それってーー」

「彩葉、君に出逢えた飛行機だよ。僕は窓際に一人で、君は弟さんとお母さんと真ん中の三人席に乗ってた。
君は初めての飛行機だったみたいですごく興奮してた。僕は精神をおかしくしてから刺激に過敏になってたけど、君の声は不思議と嫌じゃなかった。だから僕から声をかけた『こっちで外の景色見てみる?』って」

「ちゃんと覚えています」

「君は飛び上がらんばかりに喜んでたね。瞳は太陽の光を浴びてビー玉みたいにキラキラ輝いてた。窓の外の景色を見て、笑ってはしゃいで、でも本当は少しだけ泣いてた。

こんなに小さな身体に溢れるほどの気持ちを抱え込んで一生懸命生きている君を見たら、初めて生きてるって愛しいことなんだって気が付けた。無意味だとしても、あと少しだけ生きてみようと思えた。

だから彩葉、君の名前を私はこの先いつになっても忘れないでいようと誓ったんだーー」