裏返ったスマホがスポットライトみたいにふたりの姿を浮かび上がらせる。

 絞り出すように呼んだ柚が戸惑いと苦痛に歪めた顔で彼を見上げた。

 まるで亡霊みたいに立ち尽くしている夏樹くんの手には、包丁が握られている。
 鋭利な先端から血が滴り落ちていた。

「……っ」

 床についていた腕が身体を支えきれなくなったのか、ずる、と掌が滑って柚が倒れる。
 その動きに合わせて天井で黒い影が踊っていた。

 何が起きているのか分からない。
 分からないのに、その結果だけは理解より先に認識していた。

「うそ……」

 夏樹くんが柚を殺した。
 とても信じられなくて、驚愕(きょうがく)が全身を突き抜けていく。

「…………」

 ゆらりと夏樹くんがこちらに向き直った。
 包丁片手に歩んでくる。目の前に迫る。

「や────」

 どす、と奇妙な衝撃を感じた。
 やだ、も、やめて、も間に合わなかった。

 動揺して逃げ遅れたわたしの左胸に、深々と刃が突き立てられている。

「う……っ」

 痛い……なんてものじゃない。
 鋭い何かが胸の内側を貫き、裂いて(ひね)って潰される。激痛が狂ったように暴れていた。

 包丁が抜かれた瞬間、思わずむせた。
 口から何かがあふれていく。血だ。

 身体の中から冷たい異物感が消えても、絶望的な苦痛はなくならなかった。

 刺されたところを押さえると、じわりと熱い血が指の隙間から垂れて流れていく。

 足から力が抜ける前に、空いた方の手で夏樹くんの上腕(じょうわん)を掴んだ。
 それでも柚みたいに見上げる余力はなくて、そのうちに平衡(へいこう)感覚を失ってしまう。

「なん……で……」

 そう呟いた次の瞬間には、わたしは床に倒れていた。
 あちこち打ちつけたはずなのに、その痛みは不思議と感じなかった。床の冷たさも。

 意識に膜がかかって頭が朦朧(もうろう)とする。
 自分の微弱な呼吸音を聞いた。

 夏樹くんが(かたわ)らに屈み、わたしに手を伸ばした。
 それがポケットに届いて、彼の意図を察する。

(鍵……)

 わたしが屋上のそれを持っていると知っていたわけではないと思う。
 わたしを探って見つからなければ、柚の方を確かめていただろう。

 手の感触が消えたかと思うと、彼はすぐに立ち上がった。
 くるりと背を向け、暗闇の中を走っていく。
 白い光が遠ざかっていく様をぼんやりと捉えていた。

 それが見えなくなってから、やっと非常ベルの音が再び聞こえ始める。
 本当はずっとけたたましく鳴り響いていたはずだけれど、わたしの中では()いでいた。

(ど、して……こんなことに……)

 全身から力が抜けていく。
 混乱と絶望に飲まれ、わたしの命は(つい)えた。