「…………」
そのうち、音は徐々に遠ざかっていった。
(行った……?)
少なくとも壁の向こうに感じていた恐ろしい気配は弱くなっている。
手を胸に当て、深々と息をついては、吸って吐いてを繰り返した。
やけに酸素が薄い。
だけど、深呼吸を続けるうちにいくらかマシになっていった。
(本当に離れたかな……。早く探さないと)
目の前の出来事に圧倒されて身動きがとれなくなっていたけれど、少なくとも“状況”に注意を向けられるくらいには冷静さを取り戻した。
ライトはつけないまま、スマホの画面だけをつける。
控えめな明かりで扉を照らし、恐る恐るスライドさせた。
慎重に首を伸ばし、廊下の様子を窺う。
「……!」
いた。
左側、西階段のある方向。
化け物はそちらへ向かっているようで、こちらには背を向けている。
火災報知器の赤い表示灯に照らされながら、ゾンビのようなぎこちない足取りで歩いている。
あらぬ方向に折れた首や手足、濡れそぼって滴る水────その不気味な姿は昨晩見た通りだ。
ふと、手にしている鉈がてらてらと赤く光っていることに気がついた。
(まさか、あれって……)
血、なのだろうか。
もしかして、誰かが殺された……?
頭の中にみんなの顔が思い浮かび、慌てて考えを打ち消した。
表示灯のせいでそう見えるだけ、きっとそうだ。
うつむいた顔を上げ、もう一度廊下を覗く。
突き当たりで足を止めた化け物は、瞬いた瞬間に消えた。
「え……」
思わず身を乗り出し、釘づけになる。
すると。
「あああぁっ! くそ! 何で俺なんだよ!!」
そんな叫び声が上から響いてきた。驚いて縮み上がる。
3階にいるのは夏樹くんだ。
ばたばたと慌ただしく駆ける足音まで聞こえてくる。
(ワープした……)
昨日もそうだったけれど、あの霊は前触れもなく瞬間移動する。
接近に気づく手がかりは水音や重たい足音だけ。
それらを聞き逃さないようにするしか、警戒のしようがない。
「…………」
ふらふらと戸枠を支えに立ち上がったものの、足がすくんですぐには動けなかった。
逃げた夏樹くんは無事だろうか。
ぱったりと音が止んで静かになってしまった。
だけど……。
もし、さっき見つかっていたら、わたしもああして追われていた。
(怖い。……もう嫌だ)
不安定な呼吸と拍動が、また平静さを奪っていく。
よかった、なんて思えないけれど。
一時的ではあるかもしれないけれど。
少なくとも、わたしは助かったんだ……。



