つい口をついてこぼれる。
 すると、ぴた、と柚の動きが止まった。

「お願い。殺し合いとか、もうやめて……。協力しようよ」

「…………」

 必死の思いでそう訴えかけると、少しの間黙り込んでいた彼女が一歩踏み出した。

 つかつかと歩み寄ってくる気迫(きはく)が恐ろしくて、思わずあとずさる。

「ゆ、柚……」

 とん、と背中に壁が当たった。
 目の前まで迫ってきた柚が、包丁を振り上げる。

「……っ」

 ぎゅ、と目を瞑った。
 だけど、覚悟したような痛みや衝撃は一向に訪れない。

 恐る恐る目を開ける。

 すぐ真横に鋭い色が見えた。刀身(とうしん)だ。
 先端はわずかに壁に埋まっている。

「……邪魔しないで」

 それだけ告げると、包丁を引き抜いてこちらに背を向ける。
 念を押すような恨みがましい視線を残し、漂うみたいな足取りで闇に溶けていった。

 夏樹くんを見つけたら、不意をついて襲撃するつもりでいるんだ。
 だから明かりをつけないで彷徨(さまよ)っているんだ。

 そんなことに気がついて、でもそれ以上は何も言えなくて、わたしはずるずるとその場にへたり込んだ。

(わたしの知ってる柚じゃない……)

 今回はたまたま助かったけれど、きっと二度目はない。
 邪魔をするならわたしでも殺す。
 去り際の眼差しはそういう意味だ。

 右手に重みを感じた。
 はさみを持っていたことをいまさら思い出す。
 これを使おう、なんて発想は一瞬たりとも湧いてこなかった。

「もう、嫌……」

 掠れた声で呟くと、はさみを放って投げ捨てた。
 カシャン! とどこか闇の中で何かにぶつかった音がする。

(何でこんなことになっちゃったんだろう……)

 ──ジリリリリリリ!

 唐突に非常ベルが鳴り響いた。
 反響具合からして恐らくこの階じゃない。吹き抜けから聞こえているだけだ。

 ──キーンコーンカーンコーン……

 屋上が開けられた。
 この早さからして、鍵が見つかったのは4階だろうか。

(逃げなきゃ……)

 ──ゴォォ……!

 轟音(ごうおん)が響き、校舎が揺れ出している。
 間もなくここも崩落し、奈落へ吸い込まれて跡形もなく消え去ってしまう。

 頭では分かっているのに、身体が動かなかった。

 ショックが抜けきらなくて、愕然(がくぜん)としたまま立ち上がる気力が湧かない。
 床についた手に力を込めても、腰が持ち上がらない。

 ──ゴゴゴゴゴ!

 すぐ近くで地響きがした。
 お腹の底に響いてくるような重たい音。

 横を向くと、奈落が迫ってきていた。
 ひびの入った床がものすごい速度で崩れて落ちていく。
 押し寄せる波のようだった。

「……!」

 気がついたら、全身が浮遊感に包まれていた。

 床の感触が消えて、ぶわっと下から強い風が吹いてくる。
 なぜかすべてがスローモーションのように感じられた。

 あたり一面、深淵(しんえん)の闇だ。
 スマホの明かりが瓦礫(がれき)を照らし出す。

 (あお)いでみると、かなり上に天井が見えた。
 それももう半分以上闇に侵食され、奈落へと押し出されていっている。

「……っ」

 瓦礫の雨が降り注ぐ中、わたしは目を閉じる。
 崩落する校舎とともに常闇(とこやみ)を落下していった。