職員室に寄って鍵を取り、空き教室棟に向かう。


伊東先生が居た頃、彼から藤原さんを避けるためにここで補習を行っていた。


仲良く補習をした場所であれば、僕が独断で藤原さんに別れを告げた場所でもある。




良いことも悪いことも、雪崩のように記憶が流れ出てきて複雑だ。





「藤原さん。お待たせしました」
「……」


唇を尖らせて窓から外を見ていた藤原さん。
その表情は、何か感情を抑えているような。そんな感じだ。



久しぶりに空き教室の鍵を開けて中に入る。
その室内の空気感は、思い出の頃のまま時が止まっているような気がした。



「浅野先生と的場さんは?」
「ちょうど有紗は帰るタイミングでしていたので。2人とも数学科準備室から出て行きました」
「そうですか」

それなら数学科準備室に戻っても良かった。

けれど、この思い出の空き教室に2人で来るのも最後だろうし。
そう考えれば、この選択は間違っていなかったのかなとか思う。



「先生。転任ですよね」
「……何故そう思うのですか」
「私はずっと先生を見ているのですよ。態度の変化で先生の心情くらい余裕で読み取れます」
「おぉ…それは才能ですね」
「馬鹿にしないで下さい」

藤原さんは拳を握りしめて僕の腕を叩いた。
何だか、その優しい痛みすら愛おしい。

「まだシークレットなので。浅野先生や的場さんにも話してはいけません。秘密にしてもらえますか」
「…当たり前です」


僕は教壇に座って藤原さんを手招きで呼ぶと、少し距離を開けて隣に座ってくれた。


「お察しの通り、異動辞令が出ました。桜川工業高校に転任です」
「………やっぱり」

唇を噛みしめて涙を浮かべている藤原さん。
しかし、その目には強さがみなぎっているように見える。


「…去年…伊東先生が転任するってなった時、何だか漠然とした不安が湧きました。早川先生も転任する可能性があるではないか…と」
「そう言えば去年、聞いてきましたよね。転任するかどうか」
「はい。そうです。…だから、今年もそろそろ聞こうかなって、思っていたのです。そしたら、職員会議後に謎の挙動不審…。それまでは普通だったのに。それで、すぐに察してしまいました」
「………そうですか」


藤原さん、強がっている。
強がり過ぎて体が少し震えているように見える。


「先生、態度で分かりやすすぎます。シークレットでまだ誰にも言えないなら、もっと気を付けた方が良いですよ」
「いや……ごもっともです。ですが、僕だってさっき聞いた話なので…。動揺しているのです」
「その話を聞いて直行で同好会に来たのは間違いでしたね」
「そうですね。本当にごもっともです」


いつもと違って口調も強い。


何かを抑えている様子の藤原さんを、強く抱き締めてみた。


「…………先生、何ですか」
「…真帆さん。何故強がっているのでしょうか」
「………別に。先生には関係ありませんし、離れて下さい」
「真帆さん…」



全く会話にならない。
藤原さんを抱き締める腕を少し緩めて、そっと唇を重ねてみた。


4月からは学校でこんなこともできないな…なんて頭の片隅で思う。





「…………裕哉さんの馬鹿」




唇を重ねると一瞬体が跳ねて震えが強まった。


そして、堰を切ったように涙を零す藤原さん。
子供のように嗚咽を漏らしながら大泣きをし始めた。



「我慢していたのに……やめてよ…!!!!」


見たことのない姿。
周りを気にせずに泣き続けるその姿に胸が痛くなる。


「転任したらどうしようという、漠然とした不安がありました。でもそれと同時に、あと1年も当たり前に先生がいて、数学補習同好会で数学を教えて貰って…進路の決断も、受験の合否も…卒業式も…いつも近くにいてくれると思っていました。高校に入学して1ヶ月後から…ずーっと、早川先生の近くにいたのですよ…。今更、先生がいないこの学校でどう過ごせば良いのか分かりません」



“当たり前”って本当に怖い。
当たり前の毎日が当然のように繰り返され、未来もそれが続いて行くと錯覚するのだから。



藤原さんの言葉に僕も堪えていた涙が零れ落ちる。
そんなの…同じ気持ちだ。




「…けど、真帆さん。別にお別れをするわけではありません。毎日でもお会いできます。不幸中の幸いで、転任先は桜川市内の学校です」
「そうだけど、違うの。勿論、どこに行っても彼氏としての裕哉さんには変わりないです。だけど私の中には先生としての裕哉さんもいるのですよ……」


制服の裾で涙を拭う藤原さんに、ハンカチを差し出す。
そのハンカチを握って更に言葉を継ぐ。


「私の青春は、早川先生のせいで数学に染められたと言っても過言ではなくて…。その数学をずっと教えてくれていた先生がいなくなったら…。私の青春…私の高校生活にぽっかりと穴が開いてしまうような感じがします。…3年生になったら誰が数学を教えてくれるのですか…。ずっとそばに居てくれなきゃ、嫌だ…!!!」


藤原さんの言いたいことは良くわかる。

僕だって、そばにいたい。




だけど…。


「だけど、何を言っても仕方ありませんよね。先生が好きで転任するわけではありませんから。困らせてごめんなさい…」




僕が思ったことを、藤原さんが先に言葉にした。
きっと僕らは同じことを考えているのだろう。








謝りながら無理して笑う藤原さんが愛おしくて…辛くて…。


僕はその体を更に強く抱き締めた。






「ねぇ…先生。先生と生徒としても一緒に居たいし、恋人同士としても一緒に居たい。そう思う私は、欲張りでしょうか…?」
「……いいえ、人間は欲深い生き物ですから。それは欲張りではなく当然の思考だと思います。僕だって、貴女に数学を教えるのは僕しかいないと…今でも思っています。真帆さんに数学の楽しさを教える役目を担うのは、この僕だけです」



何をどれだけ話しても変わらない現実。
お互いが思いを伝えれば伝えるほど、虚しくなる。



「真帆さん。残り期間で先生と生徒を堪能しましょう。その後は…ただの恋人同士になりますから」
「堪能って…何をするのですか」
「そんなの決まっていますよ。数学のお勉強です」
「………ふふ、そうですね」




笑いながら涙を零す藤原さん。




本当に愛おしくて、悲しませたくなくて…。
何度も何度もキスを繰り返した。









(side 早川 終)