放課後、今日も数学科準備室に向かう。

「失礼します…」

ゆっくりと扉を開ける。しかし、中には誰もいなかった。

「…先生も、忙しいよね」



私は中に入り、ソファに腰を掛けた。

机の上には『鳥でも分かる!高校数学②』が置いてある。私はそれを手に取って、パラパラと中身を見た。

莫大な付箋の数。
もうこれだけで、早川先生の愛を感じる。


嬉しい。


そう思うと同時に、気合も入る。
今年度こそ、赤点回避するんだから!!





ここに来て10分後、廊下から話し声が聞こえて来た。
この声は…早川先生と、浅野先生だ。


「こちらが、数学科準備室です。右側が浅野先生の部屋で、左側が僕です」
「分かりました!!」


廊下から聞こえてくる声。
右側の扉を開けて、中の説明をしていた。


「早川先生、ところで数学補習同好会って何ですか? 先生が顧問しているのですよね!!」
「はい、顧問は僕です。けれど、浅野先生はお気になさらず。何をしている同好会かも、知る必要はありませんから」


冷たい早川先生の言葉が聞こえてくる。
その言葉1つで、浅野先生を同好会に関わらせないようにしようと思っているのが伝わってくる。


「えぇー! 僕も数学教師ですから教えてくれても良いじゃないですか! 大体、今年度は新入部員募集していませんでしたよね? 同好会から部活に昇格させなくて良いのですか? 僕、数学大好きだから…同好会を通じて数学好きが増えてくれたら嬉しいと思いまして!!! 出来れば関わらせて欲しいです!」


意外にも自分の考えを持っている熱い先生だ。
熱すぎて引いている早川先生の顔が想像できる。というか、私も引くわ。


「何度も言いますが、浅野先生はお気になさらず。数学を布教する場所ではありませんので。…あと、この部屋の隣に数学の教材を置いている部屋があります。必要に応じて利用して下さい」

淡々と話す早川先生。声が少し不機嫌そう。

「大体、浅野先生は軽音部の顧問に決まったではありませんか。同好会のことを気に留めている場合ではありませんよ」
「確かにそうですけど…。気にするくらいいいじゃないですか…」

浅野先生、軽音部顧問。
衝撃の事実に思わず声が出そうになった。


楽器を弾くのだとしたら…益々女子生徒から好かれるのだろうね。




「それでは、ここでの説明は以上です。軽音部でも覗いてみてはいかがでしょうか」
「そうですね! 軽音部行ってみます。早川先生、ありがとうございました! 後でまたここに来ますね!」

扉を開け、パタパタと走り去っていく音が聞こえた。




「……藤原さん」
「えっ」

思わず声が漏れるのと同時に、扉が開いて早川先生が入ってきた。

白衣姿の先生は私の前まで歩き続け、そのまま抱きつく。

「ちょ、先生…学校…」
「3秒だけです」

先生は本当に3秒間だけ抱きついて、その後すぐに離れた。

「先生…」
「真帆さん。僕もう…疲れました」

早川先生は私の隣に座り、肩にもたれ掛かる。
サラサラな先生の髪にそっと触れてみた。朝に跳ねていた部分は今もそのままだ。


私はひたすら頭を撫で回す。
先生はされるがままで、大人しくしていた。




しかし…珍しく泣き言を言う先生に不安を覚える。
昨日、同好会の活動をせずに寝落ちしたのもそうだけど、どうも普通ではない気がする。



「先生、大丈夫ですか?」
「…すみません」


私にもたれ掛かったまま遠くを見ている先生。
そんな先生の目から一筋の涙が零れた。





伊東が謹慎になった時から、ずっと負担が掛かっている。
浅野先生が着任して、負担も軽減されたかと思っていたが…そうでもないみたい。


早川先生が抱えていること。
それを共有できないし、そもそも先生が置かれている状況さえ分からない。


そんな自分はやっぱり高校生で、先生は仕事をしている大人なのだと実感する。




私…どうすれば良いのだろう…。




「先生、ごめんなさい。私、先生に対して何ができるのか分かりません。子供な自分が悔しいです」
「…いや、真帆さんは傍にいてくれるだけで良いのです。それが僕の原動力になります」

涙目で微笑む先生。無理をしている感じがして見ていると辛い。

「私の前では、無理して笑わないで下さい」

そう言うと先生は微笑むのを止めて、また涙を零した。
…かなり、精神的に来ているのだろう。


「ねぇ先生、今度家行っても良いですか? 朝から夜まで、一緒に過ごしたいです」

どうすれば先生の心を癒せるか分からないけれど。
今の私にできることは、可能な限り先生の隣に居ること。
それしか出来ないと思う。

「勿論です。嬉しい…お迎えに行きます」
「いえ、自力で行きますから大丈夫です」
「でも…」
「大丈夫! 学校に行くより近いですから」

先生はまた微笑んでゆっくりと頷いた。
そんな先生が可愛くて、私は先生の頭を撫でる。

「分かりました。お待ちしております」
「楽しみ!」



結局この日もまた、同好会の活動はしなかった。
そして私は浅野先生が数学科準備室に戻ってくる前に帰宅した。





2年生になってから、家に帰って数学の勉強をしている。
前までは数式を見ると脳が勝手にシャットアウトしていたが、最近はそんなこと無くなった。時間は掛かるし不正解なことも多いけれど、問題をきちんと解くことができる。私にとって大きな成長だ。


「そういえば、コート返してもらうのを忘れていたわ…」

昨日、寝落ちした先生に掛けたコート。
暖かかったから忘れていた。




しかし…。
今日の先生を振り返ってみる。



本当に辛そうで、胸が痛かった。
 

先生の苦しみを全て私が取り除けたら良いのに。そう思うけれど、そんな上手くはいかない。

 
「先生の趣味って…何だろう」

好きなことを一緒に楽しめたら、少しは心を癒せるかな。







やってくる休日までに、何をするかを考えておこう。
そう、決めた。