天帝の花嫁~冷徹皇帝は後宮妃を溺愛するがこじらせている~

 すると、雄珀がもう一度声を張り上げた。

「逃げろ、尸鬼が来るぞ!」

 慌てて逃げ出したのは船乗りたちだった。彼らは俺たちを助けるためにというよりも、野次馬根性で一緒にいただけだ。責任がなにもない彼らは一目散に逃げだした。

 問題は武官たちだ。逃げろと言われても、皇帝を置いて逃げるわけにはいかない。

 そこで俺も船の先頭に立ち、追い払うような手振りをつけて「逃げろ! 命令だ!」と叫んだ。

 俺の声も本土にまで届いたのか、それとも俺の言わんとする意味がわかったのか、ようやく武官たちも逃げ出した。

 彼らが逃げたほんの少しあとに、尸鬼の頭が海から出てきた。本土の地に足をついた尸鬼は立ち上がり、ゆっくりと歩を進めていく。泳ぎ疲れたのか、歩みはとてもゆっくりだった。

尸鬼が歩いた足跡は、黒く淀んでいた。触れるだけで腐らせる尸鬼の怖ろしさが、そこに現われていた。

(倒せるだろうか……)

 俺は剣の柄(つか)を握りしめながら、背中にゾクっとする寒気を感じた。

 圧倒的な人数差だった簒奪帝との戦いの前でさえ、不安な気持ちになることはなかった。しかし、これは人との戦いではない。果たして人間があんな生き物に太刀打ちできるのだろうか。

 一番頼りになる雄珀は怪我で朦朧としている。弦武の弓は、尸鬼を倒せないことは実証済みだ。

(尸鬼を倒せるのは俺しかいない)

 静かな覚悟を固めた。