甘美な果実

 紘が行き先も告げずに階段を下りて行った。腕を掴まれたままの俺は、吐き気を我慢しながら黙ってついて行った。喋ると余計なものまで出てしまいそうだった。そういった理由で喋らなかったとしても、何も知らない人たちにとっては、気味が悪いことなのだろうか。喋れる口を持っているのに喋らないというのは。

 一階に下り立ち、未だ無言のまま、その階の廊下を進んで行く。気持ち悪さは治まっていないが、容赦のない無遠慮な視線や言葉による攻撃、強烈な食欲を煽る篠塚の存在からは解放されたからか、ほんの少しだけ心に隙間が生じ始めると、校内の空気が異様に重たいことを改めて実感した。

 教室にいるよう指示されてから、放置されているかのように何の報告もない。その最初の指示を破り、校内を彷徨いているところを教師に見られると咎められてしまうかもしれないと思ったが、押し潰されてしまいそうなあの圧力から救ってくれた紘の手を払ってまで、教室に戻る気にはなれなかった。

 迷いのない紘の足取りは、俺を連れ出す時点でどこへ向かうのか決めていたらしく、彼は保健室の前でその足を止めた。扉に札がかけられている。職員室とあった。保健室にいない時の、養護教諭の居場所だ。何かあった時に、養護教諭がどこにいるのか分からないとなるのを防ぐためのものだろう。今は職員室にいるようだ。

 俺の不調に目敏く気づいた上で休ませようとしてくれたのかもしれないが、養護教諭がいない中で勝手に使用するわけにもいかない。それに、俺はもう大丈夫だ。重苦しかった教室から抜け出せたことで、多少なりとも気が楽になっている。頭痛も吐き気も、きっと精神的なものなのだ。篠塚を喰いたくなることを我慢しているそのストレスによるもの。クラスメートからこれまでに受けたことのない集中砲火を浴びたことによるもの。そんなことでいちいち不安定になっていては身が持たない。