甘美な果実

 口の端から液体が垂れた。それどころではない状況なのに、警察を呼べと指示されたのに、異様な食欲は治まらなかった。治まってくれなかった。ケーキの匂いが、ゆっくりと、じわじわと、家を、俺を、侵食していく。動かなかった足を無理やりにでも動かし、一歩、踏み出した。警察を呼ぶためではなかった。ケーキを喰いたいがためだった。理性よりも本能で、警察よりも食欲だった。本物の、飢えた獣のようだった。

 口元を拭いながら歩みを進め、両親が向かった先の光景がよく見え始めたところで、俺は目を見開き、その場から、また、動けなくなった。目の前の光景が、すぐには信じられなかった。信じたくなかった。それは。あれは。これは。床に倒れている、それは。あれは。これは。身体から、首から、グロテスクな色合いの赤を大量に流している、それは。あれは。これは。

「え……、なに……」

 状況を把握することを拒否するように零れ落ちてしまった声は、確かに自分のものなのに、まるで自分のものではないような非現実的な感覚を連れてきた。それでも、自分が見ているものは現実であることを証明するかのように、場違いのように漂っているケーキの匂いの中に、突如として血生臭さが乱入する。それが引き金となり、俺は我慢する間もなく戻してしまった。膝の力が抜けてしまった。訳が分からなかった。

 何が。何が。一体、何が、起こって。それが、あれが、これが、両親。血を、流しているのが、両親。父親。母親。ついさっきまで、ここを歩いて。父親は、俺に向かって、喋って。二人とも、動いて、いたのに。今は、全く、まったく、動かない。全然。ぜんぜん。動かない。誰が。なぜ。どうして。こんなこと。

「こんばんは」