信じられないことに、このマンションはコンシェルジュもいない。
 部屋の前まで誰でも来られてしまうから、彼女がストーカー被害に合うのではないかと心配していた。

「あ、誰か来たね」
 きらりは、野菜を切っていた手を止めて、扉の前の相手を確認することなく扉を開けた。

「確認もしないで、開けちゃダメでしょ」
 俺は咄嗟に彼女を抱き込んだ。

「雄也さん⋯⋯」
 扉を開けた途端見えた人物を見て、彼女が発した言葉に俺は思わず玄関に佇む人物を見た。

「渋谷雄也さん? えっと、こんにちは。兄がお世話になってます」
 彼は兄の同級生で、俺が渡米する時の送別パーティーにもきてくれた方だ。

 真面目そうで非常に感じが良くて、彼のことを嫌いな人はいないんじゃないかと思ったので覚えている。

「為末林太郎くんだよね。久しぶり。君が渡米する直前のパーティーで少し話したことがあるんだけど覚えているかな?」
「はい。覚えています。今日はきらりに何か用ですか?」

「きらりさんのことが心配で⋯⋯」
 きらりは気がつくと、俺の腕の間からすり抜けて渋谷さんを見つめていた。
(えっ? 何かきらりの雰囲気がおかしい⋯⋯)

「雄也さん私は大丈夫です。為末さんとの間にデート報道が出てしまったんですが、私と彼は特別な関係じゃありません」

 急にきらりが俺を苗字呼びしてきたことで、俺は彼女が渋谷さんに特別な感情を抱いていることに気がついてしまった。
(本当に気になる人がいたんだ⋯⋯何か、めちゃ胸が苦しくなってきた)

「林太郎! そんなお腹空いてるの? 今作るから待ってて、雄也さんもよかったらてお昼食べてってください」
 俺のことを本気で心配し、また名前呼びに戻っている彼女にほくそ笑む。
 そして、その瞬間渋谷さんの俺への目が鋭くなったのに気がついた。

「きらりさんの手料理が食べられるなんて嬉しいです」
「何が食べたいですか? パスタか、ラーメンか、うどんとか蕎麦も作れますが⋯⋯」
 俺の時は明らかにパスタ一択だったのに、選択肢が増えているのが気になった。

 和洋中なんでも選べるようになっている。
(全部、麺類だけど!)

 まあ、俺ときらりは毎日のようにランチをしていたから食の好みがツーカーなだけだ。

「じゃあパスタでお願いします」
 渋谷さんの言葉に、少し照れたような笑いをきらりが返す。

「俺! カルボナーラがいい!」
 俺はすかさず2人の間に入った。
 きらりの様子がおかしい。

 1ヶ月前に研修医の元カレと別れたと言っていたのに、明らかに渋谷さんに半落ちしている。
(俺だって、この1ヶ月きらりにアプローチしてきたのに、何で!)

「はいはい。雄也さんもカルボナーラで良いですか? ペペロンチーノとかナポリタンもできますよ」
「僕もカルボナーラが良いです」
また、渋谷さんときらりが微笑みあった。

 それにしても、なぜ渋谷さんは彼女が家にいることがわかったのだろう。
 こんなお昼時なら就職活動中で、アイドル活動をしている彼女は外にいると思うのが普通だ。
(まさか!)

「きらり! スマホ貸してくれる? 俺、忘れちゃったみたいで。緊急に調べなきゃいけないことがあるんだ」
「大丈夫? どうぞ使って!」
 彼女は俺の言葉に迷わず自分のスマホを出してくる。

 俺は彼女のスマホに、位置情報共有アプリがダウンロードされてないかを調べた。
(渋谷雄也、こんな平日のお昼時に自宅を訪れるのは流石に不自然だ⋯⋯)

「影のあるイケメン渋谷雄也⋯⋯実はストーカーだった」くらいのことはあり得る。
 しかし、怪しいアプリはダウンロードされていない。

「電話だよ! 電話だよ!」
 俺の尻ポケットに入れていたスマホが着信を告げる。
(まずい! こんな時に!)

「もう、後ろのポケットに入ってるのに気が付かないなんてドジだなあ。早く電話にでなさい」
 きらりは、俺がスマホを忘れたという嘘をついたことを疑いもせずケラケラ笑っている。
 この疑いもしないところがきらりらしい。

 彼女から14年付き合っていた彼が黙って結婚していたという話を聞いた時はそんなことあるのかと驚いた。
 しかし、彼女と関わると根っからのお人好しで人を疑ったりしない性格だというのが分かる。

「社長、13時半からの会議は出席なさいますか?」
 秘書の声が聞こえて、午後一で会議を入れていたことを思いだした。
 でも、特に緊急性もなく結論さえ聞けば俺がいなくても済む内容の会議だ。

「13時半から会議だったっけ。後で結論聞かせて。多分、出ないから」
 俺が電話を切ると、もうパスタができたのか小さいテーブルに3皿のカルボナーラが用意されていた。

「昨日社長に就任して、もう今日には重役出勤? 周りは立場上不満を言えないだけど、そんなことをしていると反感を持たれるよ」
 俺のことを注意してくる彼女が新鮮で愛おしい。
 俺は自分のことを注意してくれる人間が周りにいなかった。

 兄はよく親から期待も込みで注意されていたが、次男の俺は自由に放牧されていた。
 注意してくれるということは、どうでも良い存在ではないということだ。

「会議まで、あと1時間でしょ。パスタは残して、車でカロリーフレンドでも食べながら行きなさい」
 きらりが、健康補助食品を渡してくる。

 彼女の手料理を残して、その上、渋谷さんと独房部屋に2人きりにしてここを去るなんてあり得ない。

「ここから会社には10分もしないで行けるから。俺はきらりの手料理を食べてから行きたいの」
きらりが俺の言葉に照れたように笑う。
(よし! 俺にも脈がないわけじゃないぞ)

 そう思ったのも束の間、渋谷さんが爆弾を落としてきた。
「懐かしいですね。林太郎君が弱冠15歳で、日本の女は飽きたと言って渡米したのが昨日のようです」
 明らかに俺を陥れようとする渋谷さんの一撃に、俺は彼を敵とみなした。