一年後、ロンドン。

 ウエストエンドのスタジオでオーディションの結果が伝えられていた。

 帰り支度をしていた里桜を呼んだ演出家が、眼鏡の奥で彼女の資料をじっと見つめている。

「オーディションは残念だったけど、あなたのこの写真はとても素敵。カメラマンの腕がいいのね」

「私もそう思います」

 演出家が顔を上げた。

「次はこの写真のあなたが見たいわね」

「ありがとうございます」

 里桜は荷物をまとめてスタジオを出た。

 ウエストミンスターから地下鉄で三十分。

 チズウィックはロンドン西部の閑静な住宅街だ。

 里桜と直弥はそんな街の小さなアパートメント住宅を借りて暮らしている。

 どこの家の庭にもアザレアが咲き誇り、レンガの壁から屋根を覆うウィステリアには熊蜂の羽音がにぎやかだ。

 地下鉄の駅を出たところで、待ち構えていた直弥が手を挙げた。

 仕事終わりに駅で待ち合わせ、途中の食品スーパーに立ち寄ってから、テムズ川沿いを歩いて帰るのが二人の日課だ。

 直弥は結果がどうだったとは聞かない。

 顔を見るだけで分かるからだろう。

 落ち込んでいるわけではない。

 飛んで行ってしまった青い鳥のさえずりはもう聞こえない。

 つぶやいた愚痴はただ過去に埋もれていくだけ。

 だけど、そばにいるだけで安心する相手と一緒なら、どこで何をしていても幸せだ。

 スーパーへ向かう途中に、二人が立ち寄るジェラート屋がある。

 イギリスの食べ物は酷評されがちだけど、ここのピスタチオジェラートは里桜のお気に入りだ。

「とはいっても、これも元はイタリアのものだけどな」と、直弥はマロンジェラートを味わっている。

「それを言うなら、私たちだって外国人だし」

 日本人に建て前と本音があるように、イギリス人は皮肉の裏に本音を透かしてみせる。

『あなたのこの写真はとても素敵。次はこの写真のあなたが見たいわね』

 オーディションには落ちたけど、また来いと言われたのは今日が初めてだ。

 ロンドンへ来てから英語や発声のトレーニングはもちろん、社会人向けの演劇講座に通い、オーディションは受けられるだけ参加している。

 週に一度はテート美術館へ通い、ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアを眺めて過ごす。

 ノック、ノック、ノック。

 運命の扉を開ける鍵はまだ手にしていないけれど、退く気持ちはどこにもない。

 不安はある。

 開かないのかもしれない。

 それは冷たい石の壁なのかもしれない。

 だけど扉を叩き続ける。

 ――だって私は演じるために生まれた女だから。

 ジェラートを食べ終えた里桜は直弥の左腕に絡みついた。

 その手に男の分厚い右手が重なる。

 夕暮れの空に雲が細くたなびいている。

 日本はもう夜が明けたかな。

 みんな私のことなんか忘れちゃっただろうな。

 私はここにいるけど、どこだっていいよ。

 だって、この世のすべてが私の舞台なんだから。

           (完)